人生終盤における、一つの述懐

 現在の私は、人生の最終盤を生きている。来月7月には83歳になる。最終盤というより、余命はほんの僅かである。この間の私は、もちろん仕事ではなく、趣味でもなく、ただいたずらに四半期を超える長い間、文章を(作る、書く、生む、綴る、紡ぐ、記す)ことの一つの行為を続けてきた。いや私の場合は、その序の口とも言える文章を作る(作文)ことに甘んじてきた。作文とは、与えられた課題やみずから気ままに選ぶ自由題を浮かべて、文意に添って語句(言葉と文字)を連ねて、文章を完成させることである。難しく書いてしまったけれど、もともとはそんなに難しいものではない。なぜなら、就学し立てにもかかわらず、小学校1年生と2年生の頃には「綴り方教室」の時間があり、書けない者などだれもいなかった。すなわち作文は、習い立ての語句を用いさえすれば、文字どおり十分に作れるものである。
 文章は語句の習得が増えるにつれて入り組んで、見栄えが良くなるところはある。換言すれば確かに、見た目、読む意、共に華やかにはなる。ところが、必ずしも語句が多く見栄えの良い文章が上手で、良質とはかぎらない。なぜなら、肝心要の文意がごちゃごちゃなら文章にはなり得ない。結局、文章は文意に添って単純明快に、できれば最も適語を嵌め込む作業である。そしてこれこそ、上手く良質の文章と言えるものである。もちろんこんな、当たるも八卦当たらぬも八卦の文章論など、六十(歳)の手習いさえ未完成の私が語るべきことではない。
 ただ、四半期を超える長いあいだ文章を書き続ければ、何か一つぐらい学びたいものではある。するとこのことは、たった一つだけの体験上のわが学びと言えそうである。しかしながらこれでも、私には易しいとは言えず、難しいところだらけである。繰り返しになるけれど作文は、まずは文意を浮かべること、次にはそれに添った語句を浮かべることである。これが叶えられれば作文は、見事という飾り言葉を付されて完成する。だから私は、このことだけを意に留めて、文章を書いてきた。そして、「綴り方教室」における作文同様の文章は書けたと、自負するところはある。しかしながら私には、種無しからネタを作るすなわち無から有を生じる創作文は書けない。そのため私は、常に文意を浮かべるネタ不足に見舞われて、いつも同じような文章の書き殴りに甘んじてきたのである。挙句、ネタに新味がなく、私自身書き飽き嫌気がして、このところは一気に疲れがいや増している。
 おのずから文章書きは、終焉のドツボに嵌まりそうである。なんでもいいから書かなければならない継続文は、やはりわが凡庸な脳髄には荷が重すぎて、トコトン恨めしいかぎりである。私の場合、継続は力というより、自分虐めの総本山になりつつある。総本山? 適語とは思えないけれど、これに替わる語句が浮かんでこない。もとより私は、望んでも叶わぬ熟練工(練達)は望まない。しかし、せっかく長く書いてきたのだから、できれば見習工(初歩技術)くらいは修めて、疲れ癒しにあの世へ急ぎたいものである。