父は先妻を喪い、後添えに母を迎えて、二人の妻から生まれた14人の子どもたちを養い育てた。そして、戦争が終わった昭和20年8月15日から15年後、父は昭和35年12月30日に他界した(享年77)。それから25年後、母は昭和60年7月15日に亡くなった(享年81)。母の枕辺を、子どもたち、孫たち、親類縁者たちが囲んでいた。母は常々、「おとっつあんが良か人じゃったけんで、自分は幸せじゃったもんね」と、言っていた。奇しくもこの日は45年前、母が私を産んだ日であった。また、七月盆のさ中にあり、異母と自分が産んだ子どもたちのみんなも、御霊の父に付き添って枕辺にそろっていた。母はこの日に、みずからの祥月命日を重ねるという、離れ業をやってのけたのである。
今や私だけが生き残り、親、きょうだいを偲ばなければならない役目にある。私の脳裏には、大学に合格したことを伝えるために帰郷したおりの、やつれた病顔に笑みを湛えた父の温和な眼差しがよみがえる。―自分の中では、父はいつまでも元気なままの姿で生き続けているー 私には、この思いがあらためて膨れ上がっている。父の葬儀へ参列しなかったことへのわだかまりなど、些細なことのように思えている。一方、父のことを和んだ表情で話す、皺を重ねた母の潤んだ目元がひときわ懐かしくよみがえる。そしてこれらは、幼くして命を絶った唯一の弟・敏弘を父と母に替わって、いつも思い続けてやることで、(敏弘のぶんまで生きるんだ!)という思いを一層、私に強くつのらせる。文章を書くかぎり、(もう、書き厭きた)などとは、言ってはいけない思いが、ひしひしと私を責め立てる。だけど、疲れた。謝っても謝り切れない胸の痛みは、もはや私だけである。「鶴は千年、亀は晩年」。だけど、「生きとし生けるもの」、命尽きぬものはない。