毎年、元日の朝は、家族そろって食卓を囲んだ。父の音頭で新年の挨拶を交わした。『肥後の赤酒』で、猪口(ちょこ)一杯の乾杯をした。アルコールにはまったく縁のない父は、甘酒で舌を濡らした。それでも父は、すぐさま酒焼けの赤ら顔になり、大酒飲みの風体を見せて、「酔っぱらったぞ、酔っぱらったぞ!」と言って、道化者を演じておどけた。
母は釜屋へ戻り、大鍋を抱えて雑煮を運んで来た。父はまた、はしゃいだ。「雑煮ができたぞ。さあ、食うぞおう!」
「父ちゃん、今年はいくつ食うの?」
と、訊いた。
「さあ、どうかね。もう、年を取ったからね。そんなには食えんよ」
父は母の配膳を待った。
70歳に近い父は、丸餅を7個食べ、中学生の私は、6個止まりだった。
桜の花の時期になると父と私は、夜桜見物へ出かけた。行き先は決まって、内田川の澱みに名がついた「蛇淵(じゃぶち)」沿いの道路だった。ここは、近場の桜見物の名所を成していた。夜桜見物と言っても甘党の父は「花より団子」を好み、父の目当ては桜木の途切れる所にある一軒の団子屋だった。団子屋には顔見知りの高齢のおばさんがいた。村人はアズキまぶしの串団子を「あずまだご」と、呼んだ。ここでもまた二人は、数を競って食べた。二人の腹は「ふくらかしまんじゅう」のように膨れて、文字どおり団子腹になった。
「もういいか」
「もういいよ」
食べ終えると二人は、串を並べた。父が9本、私は7本だった。父は私を凌ぐ甘党だった。
父には飲料のアルコール類とタバコは、生涯まったく用無しだった。これらに変わるのは、御飯・麺類なら、なんでもござれの大食漢だった。アルコール類が飲めないのに父には、宴会は必要悪だったのか、それとも人が寄り集まるのを好んでいたのか、わが家でよく開かれた。父は、村中ではいろんな世話役をやっていた。なかでも、父が山の世話人をしていたときには、わが家でたびたび寄り合いがもたれた。会合が済むと、決まって宴会が開かれた。この日の母は、まるで宿命のごとくに朝早くから宴会準備におおわらわだった。宴会の料理はほぼ決まっていて、わが家の鶏(ニワトリ)をさばいての「鶏めしと肉汁」だった。この日のために縁の下で飼われていた鶏は、自給自足の最善の生贄(いけにえ)となった。
母は宴会準備に気忙(きぜわ)しく、鶏は宴会の気配に怯えて、共にびくびくしながら朝から動き回った。宴会は母と鶏の犠牲のうえで盛り上がり、三々五々散会した。「残り物には福がある」。私は、残り物の「鶏めしと肉汁」を鱈腹食べる幸福にありついたのである。しかし、同席で父と食べ競争ができなかったことは、今なお心残りとなっている。