連載『自分史・私』、17日目

 父は高血圧症状や心臓病がもとで生じる息遣いの苦しさを「息がばかう」と表現し、たびたび口にした。高校生になって町中へ通うようになった私に父は、「薬屋で『救心』を買ってきてくれんや」と、頼んだ。「救心を服むと、息が楽になり、とてもええがね……」。この言葉がうれしくて私は、たったの一度さえ忘れずに買って帰った。確かに、救心を服んでしばらくすると、父の赤ら顔はいつもの穏やかな顔になり、ばかっていた息は軽くなった。この頃はまだ兆しだった父の心臓病は、しだいに業病になり、やがては息を止めたのである。
 『救心』には後日談を添えなければならない。わが勤務するエーザイに、『救心製薬』の社長の子ども言われた男性が大学を卒えて、短い期間限定の「見習い修業社員」として入社した。私には後輩だがいずれは、救心製薬の社長ないし重役として崇めなければならない。こんなことはどうでもいい。私は初対面の彼に真っ先に向かい、心を込めて『救心』に授かった父の命の御礼を述べたのである。
 私は中学生のとき、鹿本郡の中体連(全国共通の中学生陸上競技大会)において、3競技種目に出場した。一つは砲丸投げで2位になり、一つは走り高跳びで4位になった。400メートルリレーには、ふうちゃん、健次郎君、信吉君と出た。2位までは熊本県大会へ出場できた。私は砲丸投げで県大会への出場を決めた。県大会はかねて憧れの「熊本市水前寺陸上競技場」で行われた。私は内田中学校からただひとり出場した。
 父は、私の出場を大層喜んだ。そして、大会前の十日間、毎日馬肉を買って来た。馬肉は熊本名物とはいえとても高価だった。父は「食え、食え、いっぱい食え!」と言って、みずから馬肉の塊を箸先で摘まみ上げ、私の小皿に移した。私の利き腕・右腕には、日に日に馬力がついた。私は頼もしげに力こぶを作っては、瘤を撫でた。
 あるとき、わが家に出入りの博労(ばくろう)が、良馬という触れ込みで、「北海道産の馬」を連れて来た。父は多額の金をはたいて、その馬を買った。たぶん、北海道産という言葉に釣られ、馬に惹かれたのだろう。確かに、北海道産の馬は、父と家族の期待の馬だった。ところがその馬は、飛んだ暴れ馬で農耕には向かなかった。これに懲りて父は、それ以降は馬から牛に変えた。家族はこのことで、父を責めることはなかった。父もまた、すぐに「のんきな父さん」に戻った。
 父はよく行きつけの魚屋から、無塩(生魚)の藁苞(わらづと)をぶらぶら提げて帰って来た。多くは安手のイワシ、サバ、タチウオだった。ときには金を張り込んで、「うばぎゃ」(アサリ? それとも名を知らぬ小貝の刺身)、または赤身鯨(クジラの刺身)を買って来た。不断の父には、子煩悩躍如するところがあった。顔馴染みの魚屋はそれを見透かして、常套句で父を釣った。「あたげにゃ、子どもが多いけれど、みんな良い子ばかりですな。どのぐらい計りましょうか?」まんまと釣られて父は、「四百匁ほど計ってくれんかいた」と、言っては買うようになった。子煩悩に釣られ、絆(ほだ)されて上得意へ祭り上げられたのである。
 母は父が遣ることにはまったく無抵抗で、笑顔で藁苞を受け取ると、夕御飯には煮魚を食卓へ乗せた。家族も賞味にあずかれるので、不平を言う者はいなかった。父は無邪気な好々爺だった。