連載『自分史・私』、19日目

 八十八夜、風薫る5月の空が照り輝く、最もさわやかな季節にあって、私は内田中学校の修学旅行に出かけていた。行き先は、二泊三日をかけての福岡市内周遊だった。私は洋々たる気分で帰って来た。道すがら土産物を見て喜ぶ、母の笑顔を思い浮かべていた。大きな声で、「ただいま」と言って、戸口元から土間を走り抜けて、母がいるはずの釜屋(土間の炊事場)へ走り込んだ。いるはずの母は、いなかった。この日、修学旅行から帰ってくるのは、手渡していたスケジュール表で、母は知っていた。いつもの母なら、こう言ったはずだ。「もう帰ったつや。早かったばいね。修学旅行は、面白かっただろだいね」。私はこの言葉を思い浮かべて、観光バスを降りて解散したのち、駆け足で帰って来たのである。ところが、釜屋に母の姿はなかった。走り回る足音もしなかった。私は釜屋から離れて、土間の上り口のところに立った。また、大きな声で、
「母ちゃん、ただいま!」
 と、叫んだ。母の返りの声はなく、表座敷とは違うごんぜん(奥座敷)から、済まなさそうな表情で、フクミ義姉さんが現れた。
「しいちゃん。早かったばいね。旅行、楽しかっただろだいね。おっかさんは、向かえん畑で茶摘みばしよんなったとき、崖からつっこけて、今、寝とるなるもんね」
 姉さんの驚愕の言葉だった。
 私は上り口を越えて、ごんぜん(表座敷)へ上がった。そして、表座敷とは別の、茶の間の奥の姉さんが出てきた八畳の部屋を恐るおそる覗いた。母は、額にタオルを乗せて寝そべっていた。土産物のことや旅行気分は、いっぺんにすっとんだ。悲しかった。
「無事に帰ったたいね。すまんね。崖から、つっこけたもんじゃけん……」
 母は、仰向けになったままに言った。
「なんで、つっこけた」
「……」
 会話が途切れた。
 父は昼寝の王様だが、母は昼寝用無しに独楽鼠のように働き尽くめだ。だから昼日中、母の寝込んだ姿を見るのは初めてだった。こともあろうにそれは、修学旅行から帰った日だった。私は手を変え品を変えて選んで買った土産物を母に手渡せず、とても悲しかった。
 母は日々高熱に魘(うな)され、ひっきりなしに幻覚症状が現れた。あわや! 母の命は、死線を越えそうになる。どうにか持ちこたえたのちは、病臥する長患いになった。その後も母は、高熱に魘され、幻覚症状に取りつかれて、闘病の日々は厳しさを増し続けた。不断からかかりつけの「内田医院」の下、父および家族そして近場の身内総出の看護団は、一家の家族のように連携を取り合って、母の命の見守りに奔命したのである。
 その中心を成した内田医院、主治医の二代目の内田青年医師の夜を日に継ぐ献身的熱意(治療)は、まさしく神がかりだった。突然降ってわいた母の闘病は、わが生涯(自分史)においては敏弘の事故に次いで、悲しい出来事に位置している。