連載『自分史・私』、16日目

 父に初期の高血圧症状があらわれたのは、近くのクヌギ山の間伐に出かけていた日のことだった。不断の父は、すぐに高鼾(たかいびき)が出るほどに寝入りが早かった。働き尽くめできた者特有に父も昼寝が大好きで、「10分ほど寝るからね」と言っては、寝場所を選ばず手枕で、ひょいと寝転んだ。確かに、10分ほどが過ぎるとひとりでに起きて、「よう寝たばい。ぐっすり寝たばいね」と言っては、晴ればれとした気分で呵々大笑した。骨柄太く図体の大きい父の寝姿は、父が慕う源義経を守る『武蔵坊弁慶』のようでもあり、家族には頼もしく思えた。そんな父だから木漏れ日の中で、疲れ癒しに横臥していたに違いない。
 クヌギ山から帰って来た父は、「山ん中にごろ寝していたら、気分が悪くなったんで、帰って来たたいね」と、言った。いつもの父は、気分良く目覚める。だから、家族は心配した。父に高血圧症状が出はじめると、父と私の間には何事にも連携し合う、仲間意識のような感情が芽生えた。晩年の父には高血圧が誘引する心臓病に併せて、脳軟化症状が顕れた。挙句、これが誘引する、いくらかの痴ほう症状も出はじめていた。これらは、晩年の父にとりつく病症状だった。そして、家族を悩ました。
 家具の町で名を馳せる福岡県大川市(筑後)に嫁いでいた異母長姉スイコの義父の法事に、父が出かけることになった。旧国鉄バスと鹿児島本線に乗り継いで往来する旅は、父にとっても家族にとっても不安だらけだった。それまでの父は、「のんきな父さん」だった。しかし、病がちになった父の表情には不安が見えはじめた。
「しずよし、一緒に行ってくれんや。おまえが、一緒に行ってくれれば、ありがたいんだがね。おれも、このところ筑後へは行ってないし、スイコの手前もあるから、行かにゃんもんね。筑後へ行くのも、もう最後になるだろうから行きたいし、どうや、一緒に行ってくれるか?……」
 父は、すまなそうに私に言った。
「おれが、行くの? 筑後へは行ったことがないけんで、行こごたるばってん、でも自信がないなあ……」
 と、私は言葉を返した。
 しかし、普段見ない父の不安そうな表情を見ると私は、父のお守り役を決意した。私にとっても、未知のところへの長旅である。私は、汽車に乗るのも初めてだった。切符の買い方さえわからない「ひよっこのお守り役」、すなわち病がちの父にたいし、私は「にわか付添人」なった。
 途中の父をおもんぱかって私は、くたくたになってはるかに遠い筑後に着いた。玄関先で出迎えたスイコ姉は、
「しずよしが連れて来てくれたんか。ありがとう。よう、来たばいね」
 と、言った。
 母ほどに年の離れた姉は、込み上げるものがあったのか、目頭を押さえながら私に声をかけて、長旅をねぎらってくれた。私には、無事に役目を終えた喜びがあふれた。
「しずよしが、ついて来てくれたから、また来れたつよ。スイコに会えて、とてもうれしかばい」
 と、父は追い打ちの言葉を言った。
 姉に伝える父の言葉は、うれしさで涙声になっていた。私にも、生涯の思い出を成す旅だった。私は、「瀬高」とか、「船小屋」とか、「羽犬塚(はいんづか)」とか、の駅名を知った。特に、羽犬塚駅前の一膳飯屋で、父と一緒に食べた「サバの味噌煮」の美味しさは、今なおありありとよみがえる。まだ小学生だった私は、病が取りつきはじめていた父を無事に送り迎えできた。確かに、父の旅仕舞いであった。一方、私には長旅そして汽車初体験であった。危なっかしい「父子道中(おやこどうちゅう)」だったが、そのぶん、生涯消えることのないピカピカの宝物となっている。