連載『自分史・私』、15日目

 いつも、母屋の戸口元に吊るされている、色褪せて使い古しの野良着は、父の働き盛りの晴れ着である。野良着は紺無地の狩衣風の「半切り」である。手許の電子辞書を開いて確かめた。「甚兵衛羽織」(じんべえはおり)と言うのかな。ところどころは擦り切れて、紺無地は白茶けている。母も、父の本当の働き盛りは知らないと言う。それでも母は、常に私にこう言った。
「父さんは米俵を積んだ馬を引いて、県境の山越ではるかに遠い津江(大分県日田市中津江村)辺りまで行きよんなはったつよ。とても、働きもんだったつよ」
「父さんはたばこの一本も、酒の一杯も飲みならん人でね。一銭の賭けごともされんし、人は〝なんのかんの〟言ったばってん、自分はとても幸せだったもんね」
 父の話をする母は、普段の控えめな母に似ず、誇らしげだった。〝なんのかんの〟という言葉は、母の結婚が後入りのうえに年齢差もあったことで、村人から受けた風評をさしていたようだ。
 将棋のほかの父の楽しみは、母を連れ立っての年に一度の「杖立温泉」(熊本県阿蘇郡小国町)への長湯治だった。父は普段から「杖立、杖立」とよく言っていた。だから、杖立温泉はごく近いところと思っていた。ところが杖立温泉は、大分県と熊本県の境にあり、山越えのケモノ道を歩いて、果てし無く遠いところにあった。私は後年のふるさと帰行のおりに、長兄が運転する軽トラの横に乗り、父と母が歩いた行程をドライブした。このドライブは、私の長兄へのたっての願いで実現したものである。私は父と母が歩いた道を車とはいえ、全道を確かめてみたかったのである。するとそのときの私は、道の険しさと距離の長さに度肝を抜かれた。もちろん、父と母が歩いた頃の道は、舗装などまったくない昼なお暗い山中道、いや多くはケモノ道である。私には当時の父と母の姿が切なく甦る。父は「甚兵衛羽織」に替えて、母は「モンペ」に替えて、二人はどんな一張羅(いっちょうら)を身にまとい、手を取り合って仲睦まじく往来したのであろう。こちらはうれしく偲ばれる。