(私の心中の父は、死人ではない)。様々な思い出が、「生きた姿」でよみがえり増幅する。挙句、わが自分史は、父の思い出で紙幅が埋め尽くされる。それはまた、箆棒な幸運である。私は、自分自身の「墓地」は買っていない。「前田家累代之墓」はふるさとにある。ハードの墓はなくとも、ソフトの墓は残された者の心中にある。ハードの墓は、永代供養のお金や、墓掃除などで面倒くさい。また、ふるさとの墓は遠くて、墓参りはご無沙汰続きである。いや、もう行けない。心中の墓は都合がいい。私はお墓参りに替えて、常に父の姿を浮かべている。
父の年齢は60代後半であったろう。父は、米俵(60キロ)を地面からひょいと持ち上げて肩に担いだ。あるときの父は、近所の青年・慶ちゃんから相撲の挑戦を受けた。慶ちゃんは腕白坊主が青年の衣を着始めた二十歳の頃で、体中に若い力が漲り弾んでいた。
「小父さんは、相撲はもう弱くなったでしょうな……」
「なんば言うか。まだ、洟垂れには負けんぞ。相撲、取ってみるか……」
父は、挑んだ慶ちゃんを畳の上でぶん投げた。
「小父さんは、いつまでも強いな……」と言って、慶ちゃんは再挑戦を諦めた。
この頃の父は、額から頭の天辺までまん丸に禿げていた。私が学校へ行くと、「ゴットン吾市の禿げ頭」と言って、からかう友達(渕上喜久雄君)がいた。水車の「ゴットン、ゴットン」という音に、禿げ頭の父の名前を付けて、からかったあだ名である。しかし、父好きの私にはまったく苛めの効果なく、びくともしなかった。
私の学校行事にあっての父は、友達の家族のだれよりも早く現れた。秋の運動会では、運動場にまだ生徒たちの姿ばかりが目立つ中にあって父は、早くから大柄な体と禿げ頭を太陽光線に晒して立っていた。私が照れ隠しに父の前を猛スピードで駆けると、父は「そうだ。その調子だ。速いぞ、速いぞ!」と言って、大きな声で叫んだ。
授業参観の日には、先生がまだこの日の心構えなどを話している最中に父は、後方の入り口から入ってきた。ひとり、後壁に掲示の図画や習字を見ていた。友達は、キョロキョロと後ろを見た。(あの人は、だれのおじいさんだろう?)と、思ったはずだ。父は飛びぬけて家族思いが強かった。私にかぎらず、子どもたち(きょうだい)みんなが慕い、自慢の父親だった。
私の場合、父との生活、すなわち直接父の愛情に触れて生活したのは、高校までの18年間だった。ところがこの期間は、すでに父の晩年だった。父と母が結婚した年齢は、父40歳、母21歳である。そして、私が誕生したときの父と母の年齢は、56歳と37歳である。だから、私は若い頃の父はまったく知らない。まして、父の働き盛りの働きぶりなど、露ほども知る由ない。私が知る父の姿は、すでに家督万端を長兄に譲り、隠居然として余生を送っていた。そのため父は終日(ひねもす)、近所近辺の将棋仲間を呼んでは、陽だまりの縁側で唯一の趣味の将棋を指していた。ある日の回覧板の囲み記事の中に、村内の将棋名人のことが載っていた。私はその中に父の名を見つけて、
「父ちゃんが村の名人で、いちばん強いと書いてあるよ」
と、言った。父は「おれより強いのは、まだいっぱいいるんだけどな……」と言って、相好を崩しうれしそうだった。私もうれしかった。