連載『自分史・私』、13日目

 年の瀬、昭和35年12月30日、私は八百弘商店の店先で、顔馴染みの郵便配達員から一通の電報を受け取った。兄たちは車で配達に出かけるが、免許を持たない私だけはいつも、店頭で接客に明け暮れていた。だから、郵便物など外部からの届け物はほぼ、私が受け取っていた。
 大学は冬休み中だった。手にした電報は一目でわかる「弔電」父の訃報だった。3人が配達から帰り4人が揃うと、鳩首を交えて店先に佇んだ。いくらか予期していたとはいえ4人は、沈痛な面持ちで相談を始めた。4人の相談事は、決まって店先でする習わしだった。咄嗟の相談事は、父の葬儀への参列の仕方だった。八百弘商店には、得意先が定着し始めていた。歳末の三が日には毎年、正月用の食品を求めて多くのご贔屓客がきてくれた。それらの多くの人は、兄弟の仲の良さに好感を持って、好意的に八百弘商店をあてにしてくれていた。今でもはっきりと名前とお顔が浮かぶ、馴染みの心優しい人たちである。4人はうれしい悲鳴で大わらわだった。歳末商戦特有に、予約伝票の多さは4人を喜ばせた。「店は閉めて、4人とも帰るか」「お得意様第一だ。店は閉められないだろう」「おとっつあんは、店を閉めるのは望まないはずだよ」「誰かが代表でひとり、帰るしかないだろう」。
 相談事の決着は、4人のうち、葬儀参列者が1人、店番が3人と決まった。次には、だれが行くのかを決めた。結果、この時点でもっとも長くふるさとから遠ざかっていた四兄が、命の絶えた父のもとへ旅立った。私に不満はなかった。いや、父の死に顔を見ないで済んだことは、はしたなくものちのち幸運だった。なぜなら、私の心中にはずっと、合格の知らせを持って帰った、あのときのワンシーン(一コマの情景)が浮かんだままに、「父は生きている」。このことは、世間体はどうあれ、偽りのない箆棒な幸運である。
 父は私の大学合格を知り、そして2年生のおりに永別した。(店が大事だ。だれも来なくていいよ。きょうだい仲良く、東京で頑張れ!)。父はたぶんそう言って、先妻そして後添(のちぞえ)へと繋いでもうけた、めでたい子沢山の人生を閉じたのである(享年75歳)。