私は中央大学だけを2学部受けた。法学部は落ちたけれど、商学部は受かった。大学の中庭に掲示される合格者名簿は、二兄と並んで見遣った。この頃の私たちは、そののちの父には危篤状態は訪れず、病臥が続いていると聞いていた。受験を終えると兄たちは、「一度、わが家へ帰ってこい!」と、優しい言葉をかけた。私は、兄たちの優しさがうれしかった。父へは真っ先のこと、長兄やフクミ義姉そして母に、合格の喜びを伝えるために私は、行きとは逆に飛び跳ねるような気分で、下りのブルートレインに乗った。これまた行きとは逆に私は、戸口元で「ただいま」と言うと、猛スピードで座敷に病臥しているはずの父のところへ走った。
思いがけなく父は、兄たちが金を出し合って買ってくれていた当時はやりの分厚いマットレスの上に半身を起こして、「ぴょこん」と座っていた。私はうれしかった。傍らには内田小学校に上がったばかりの内孫の良枝が付き添っていた。たぶん、おじいちゃんの見守りを頼まれていたのであろう。父に声をかける前に、わが目から滂沱のごとく涙が流れた。ぬぐい切れない涙を拳で拭いて私は、「父ちゃん。会いたかった。治ってよかったなあ……。大学、合格したよ!」
と、言った。
今、私の目から涙がこぼれている。涙まじりに声をかけると父もまた、仏陀のような温和な眼差しに涙をためた。そして、病の顔に精いっぱいの笑顔をつくった。この頃の父には、心臓病とは別にいくらの痴呆症状が出始めていたという。ところがその様子は微塵もなく、やつれているとはいえ正気の笑顔だった。父は、髭まみれのゴボウのような水気のないゴツゴツした両手の平を合わせて何度も叩いた。父のありったけの祝福と喜びを伝える「無言の手たたき」だった。傍らの良枝もまた真似て、「やんやの手たたき」をしてくれた。この情景はわが生涯において、もっともうれしく、そしてせつなく、わが心の襞(ひだ)に焼き付いている。文章を書かなければもちろん、わが心中にだけ埋没している一コマのワンシーン(情景)である。作者冥利に尽きるとはたぶん、こんなことを言うのであろう。
3月になると私には、内田村から本当の巣立ちが訪れた。私は父を病臥に残して、受験に向かったとき同様に、沈痛な面持ちで再び、「東京行き、夜行寝台急行列車」に乗車した。大学に入学すると私は、八百弘商店を営む兄たちとヨシノ義姉の生活の中に本格的に割って入った。そして、四兄弟の末の店員の一人として、懸命に働いた。ふるさとの長兄は毎月、5千円の仕送りを続けた。私の大学生活は、「多くのきょうだいの中で、ひとりぐらい大学にやろうじゃないか」という、兄たちの思いやりで実現したものだった。そうした兄たちの恩愛と願望を心身に甘受し、私はとうとう生誕地・内田村から離れ別れて、異郷・東京における生活をスタートさせたのである。