連載『自分史・私』、11日目

 この文章は記録や資料などにはすがることなく、浮かぶ記憶のままに書き殴りで書いている。本音のところは早く書き終えて、楽になりたいだけである。言い訳がましいことを書いたけれど、自分自身、記憶がこんがらがっているから書き添えたものである。
 八百弘商店は、店舗付き住宅の小さな借家であった。二兄がどういう経過でここを借りたかは、詳しくは知らずじまいである。ただ、後で書くけど二兄は、一つだけ借りたいきさつを教えてくれた。先ほどは10分足らずと書いたけれどそれは誤りで、当時の国鉄「国分寺駅」北口からは、5分ほどだったようにも思えている。
 借家の八百弘商店はトタン屋根の平屋造りで、町家が並ぶ中にあって、かなり古ぼけていた。裏の勝手口の壊れかけていた木製のドアを開けると、「西武・多摩湖線」の線路が「国分寺駅」を終発着駅にして、長く寝そべっていた。線路を挟んでは立ち入りを止めるために、有刺鉄線を三筋ほど横に張った支柱が等間隔に立ち並び、その一本には「入るな、危険」と、手書きされた板書が貼り付いていた。
 表の店先にはバスの通らない5メートルほどの道路が走っていた。線路伝いに道路は、「青梅街道」方面へ延びていた。八百弘商店は国鉄・国分寺駅からは近いけれど、駅前のメイン道路からはすぐに左に逸れて、裏通りの一角にあった。八百弘商店の隣は狭山茶を広範囲に商う店で、二兄はここから借りたのである。一つだけ二兄が教えてくれたのは、どうしてもここで八百屋をやりたいという熱意にほだされて、屋号『御茶きん』を営む大家が、安価な条件で貸してくれたという。
 上京すると私は、八百弘商店の下、兄たちの庇護を頼りに居候生活が始まった。二兄は、結婚したての新婚ホヤホヤの真っ盛りだった。ヨシノ義姉は福島県出身で、保険外交員として互いのところに出入りされていた、馴染みの人が引き合わせた見合い結婚だった。細面(ほそおもて)の義姉はびっくり仰天するほどに美しく、そのうえ未だ独身の三人の弟たちに対しては、この人以外にはいないと思えるほどの心優しい人だった。そのお返しに弟たちは生涯、義姉を母親代わりにして、「東京の若いお母さん」として慕った。特に高校を出たばかりの私にとっての義姉は、第二のふるさとにおける母親になりきっていた。突然飛び込んできた私に対し義姉は、「しいちゃん。今は勉強するのがいちばんの親孝行だからね」と言って、受験生の私をおもんぱかり、日々温かく励まし続けた。だから私は、受験日までは一切、店の手伝いをすることもなく勉強に専念した。しかしながら、どんなときにも私には、病臥に残してきた父のやつれた姿が心中にこびりついていた。
 八百弘商店は異郷で大繁盛した。その後の私は、ここを出るまで店員になりきり、大車輪で働いた。もちろんそれは、無償の居候生活に報いる恩返しだったのである。二兄に続いて三兄そして四兄も結婚して、それぞれに適地を求めてみずからの八百屋を開店した。これまた見目好い妙齢の義姉二人は、「東京の若いお母さん」を真似て、心優しい「東京の若いお姉さん」になった。三兄のお嫁さんは、父の姪っ子の長女(熊本県玉名市出身)という縁戚で、四兄のお嫁さんは、内田村におけるわが親しい同級生である。