連載『自分史・私』、10日目

 父と母の言葉の裏に私は、降ってわいた大学受験を温かく見守り、応援していることを感じた。それに報いるためにも私は、(何がなんでも合格するんだ!)、という決意を固めた。
 父が最初の危篤に陥ったのは、昭和34年の1月末の頃だった。父は家族、嫁いでいる長姉、近くに住む異母長兄の家族などに囲まれて病臥していた。幸いにも、危篤は大事に至らず凌いだ。ところがわが家族、とりわけ私にはつらい決断が迫った。神様の無慈悲のいたずらなのか? よりによって父は、私が受験のために東京ヘ向かう予定の前日に危篤に見舞われたのである。時々刻々と出発の時間が迫るなかにあっても私は、なお出かける決断がつかずに、病臥する父の枕辺に蹲(うずくま)っていた。「早く行け!」という最後通牒は、急かせる長姉や長兄の優しさだった。
「おとっつあんのことは、自分たちにまかせて、早く行け。汽車に間に合わなくなるぞ!」
 出発の準備万端は、前々から用意周到にととのえたていた。だから決断さえすれば、万事OKになる。しかし、私は決断ができない。家族は「行け行け、早く行け!」と言って、私の追い出しにおおわらわである。それでもまだ私は、病臥の父を見つめている。私に替わって、母が決断した。
「早く行けばええたいね。おとっつあんは治るばい。遅れんようにせんといかんたいね。東京では、兄さんたちが待っているよ。早く行かないと、汽車に乗り送れるばい!」
 私は流れ出る涙を拳(こぶし)で拭きながら、なお病臥の父を振り返り、小走りで戸口元を出た。このときになってもなお、わが決意はためらい揺れていた。私は町中の「産交バス山鹿停留所」で乗り継いで、3時間ほどかけて熊本駅に着いた。東京、いや試験日に向けて勇躍するはずのわが意気は、まったく上がらないままに夕方、私は予定していた「夜行寝台急行列車東京行き」に乗車した。黙然と車窓を見つめていて浮かぶのは、病臥している父への切ない思いだけだった。
 熊本駅から19時間ほどかけた夜行列車は、午前11時近くに10番ホームへ滑らかに着いた。スピードを緩めた窓を通してプラットホームを凝視していると、迎えに出ていた二兄の姿がチラッと見えた。二兄も、目敏く私を確認した。そして、(ここにいるよ)と、わかるように右手を上げて左右に振った。まばゆいばかりの明かりの中、雑踏する人の波にもまれながら、二兄にしがみつくようにして私は、一番線の「中央線ホーム」へ辿りついた。
 二人は50分ほどで、国分寺駅北口を出て、歩いて10分足らずの「八百弘商店」に着いた。待ち構えていた二兄と三兄は、「しずよし、よう来たな。おとっつあんのことは心配せんちゃええ……」と言って、ニコニコ顔で出迎えてくれた。(東京だ)、わが決意は、受験に向けて固まった。