二兄は、「八百弘商店」開店の第一報を東京からふるさとへ送った。
「決して、親には心配を掛けません。これからは食べ物関係の商売なら、食いっぱくれることはないと考えて、三人で八百屋を始めました」
手紙が届いた日、涙をためてかたわらで不安そうに手紙を覗き込む母に対して父は、「次弘は根性があるけんで、心配することは要らんよ」と、言った。このときの私は、内田中学校1年生だった。
こののちは、「八百弘商店」からよく木枠のリンゴ箱が送られてきた。母が剥くリンゴを食べている父の姿は、不安というより大きな期待に溢れていた。父は何より、兄弟が助け合って開店したことを喜んでいた。この頃の父は、高血圧症状による心臓病を患い始めていた。このため父は、宣伝文句を頼りにして市販の『救心』を服み始めていた。高校生の頃の私は、父の依頼で帰りに町中の薬屋で救心を買った。救心を買い忘れることは、たったの一度さえもなかった。いや、救心を買う日の私には、「これで治るようで」、うれしさが込み上げていた。なぜなら救心は文字どおり、私にも気懸りな父の心臓病を救ってくれるそうに思えていた。
私の大学受験生活は、予期しない長兄主導の兄たちのひそひそ話で始まっていた。「きょうだいが多いのだから、ひとりぐらい大学にやろうや」。もはや、この望みに該当するのは私だけである。「しずよし、大学へ行ってもいいぞ」。ところが、私は進学希望者向けの課外授業さえ用無しに、高校三年の秋まで部活のバレーボールに明け暮れていた。バレーボールの練習から帰ると毎度、眠たい夜が訪れた。
異母二兄の病気療養を兼ねて、はたまたチズエ義姉との新婚者住宅として、小さな家が建てられていた。家族は、「下ん家」と呼んだ。ところがその家は、異母二兄が亡くなり、チズエ義姉が再婚で出ると、空き家になった。のちに「下ん家」は、父と母そして私が寝泊まりするだけの離れ家となった。最終的には、長兄とフクミ義姉の蚕室となっていた。
母屋で夕食を摂り、風呂を済ませると寝るためにだけ父と母と私は、「下ん家」へ行った。いや、私にだけにはそれに、「勉強をするため」という、大義名分が加わっていた。だから、私がいちばん先に行った。ところが部活の疲れで毎夜、私は勉強机に涎を垂らしてうつ伏せになっていた。後からやって来た父は、「さぞ、眠かろうねー。無理するな。風邪ばひくぞ。もう布団に寝ればいいよ」と言って、丹前の袖から色鮮やかなごっだま(飴玉)のいくつかを机の上において、床に就いた。
一方母は、抱えてきた湯たんぽを布団の中に入れたり、わが足下に置くちゃちな市販の「電気行火(でんきあんか)」を丁寧にわが足にととのえて、「もう、勉強せんちゃ、よかろだい」と言って、布団の中に入った。私は、母肝いりの分厚い練りの褞袍(どてら)を羽織っていた。一晩中、無駄な灯りが煌煌とついていた。ただ、降ってわいた大学受験は、夢心地の中で東京の兄たちにすがるしかないことだけは固めていた。