連載『自分史・私』、6日目

 これから書く文章は、私の文章を読んでくださる人にとっては、またかと思われるものである。しかしながら文章を書くかぎり私は、いろんなところで繰り返し書かなければならない。理由の一つは、わが生涯における最大の悔恨事ゆえに書けば、常に詫びなければならない。もう一つは、私にも弟がいたこと、すなわち敏弘がこの世に生きていたこと(実在)を、書き留めて置かなければならない。まさしく、私にだけ課せられた痛恨の義務である。もちろん、こんなことなど書かなくて済めばいい。しかしながら、そんな身勝手は許されない。罪をしでかした私の、つらい悔悟と懺悔である。
 敏弘の誕生日は昭和19年3月31日。母は、兄の私が4歳と8か月のおりに弟敏弘を産んだ。このときの父の年齢は60歳、そして母は41歳だった。敏弘は、二人のしんがりの子ども(末っ子)であり、私にとっては唯一の弟である。さらに言えば敏弘は、異母(6人)と母(8人)が産んだ子ども(14人)の末っ子である。父にすれば敏弘は、14人目の子どもとして誕生している。太平洋戦争の戦雲たなびく昭和20年2月27日の昼下がり、ようやくめぐってきた春はいまだに肌寒いなかにあって太陽は、暖かい光を放っていた。この日の敏弘は、生後11か月近くだった。母は敏弘を背中におんぶして、精米機械類が据えられている母屋、その庭先、そして仕納場(農作業用の二階建ての建屋)の前の広い「坪中」間を足繁く往来していた。母は坪中にひとりで遊んでいた私のところへ、急ぎ足でやって来た。母は「ちょっと、見といてくれんや」と言って、背中の敏弘を地面に下した。母は敏弘の子守を私に託すと、とんぼ返りに小走りで、再び母屋の中へ入った。母のおぶ紐から解かれた敏弘は、家族が認めていた生まれつきの敏捷さで、チエーンを外された小犬のように勢いよく「這い這い」を始めた。私は敏弘のスピードを恐れた。方向感や危険感覚などなく這いずり回る敏弘を追っかけて、私は敏弘にはわかりようない言葉を大声で叫び続けた。
「危ないよ。そっちへ行っちゃ、危ないよ!」
 私はなんども敏弘をとらえ、抱きかかえて坪中の奥へ連れ戻した。そのたびに私の足はふらついた。兄とは言えない、まだ頼りない足だった。
 敏弘はすぐに這いずり回る。私はまた追う。万事休す。「ドブン」。水しぶきが上がった。敏弘が水路へ落ちた。20メートルほど先には鉄製の大きな水車が荒々しく回っている。敏弘が水車へ向かって流れている。笹や小さな木の葉も流れている。私は敏弘を見つめたまま、呆然と立ち竦んだ。
 水車の5メートルほど手前には、最後の砦を成す金属製の丸棒が数本横並びに立てかけてある。ところが、壊れていたのか防護柵は用無しだった。「ゴン」。回っていた水車が止まった。母が血相を変えて、母屋から飛び出して来た。母は、敏弘を抱いて母屋の中に消えた。瞬間、敏弘の命が消えた。(さようなら)。
 私には、敏弘の最後の姿を見に行く勇気はなかった。(追認事項、公募単行本、応募入選掲載)。『さようなら物語』(選:立松和平・池田理代子。双葉社:2000年4月30日第一刷発行)。さまざまな別れのかたちをしみじみ味わう【38の物語】、「忘れられない私の別れ」作品集。『別れの川』(神奈川県鎌倉市、1940生まれ)。つらい別れだったせいか、1000編ほどの応募作品の中から、当代人気の二人の選者が選び、かつ市販の単行本に、7ページぶんわが作品が掲載されていた。ときおり私は、書棚から取り出し、兄として弟をつらく偲んでいる。いくら謝っても果たせない、涙タラタラ落ちる罪つぐないである。