連載『自分史・私』、5日目

 父・前田吾市は、明治18年2月10日、熊本県鹿本郡内田村に生まれた。父は、父親・彦三郎と母親・ミエの三番目の子どもであり、姉二人の次に一人息子(長男)として生まれている。父が生まれたところは、村内では小伏野集落と言った。しかしそこから移り、人生の大半を過ごしたところは田中井手集落だった。父は内田川をあてにして水車を回し、精米業を営むために、ここへ移り住んだのである。だけど、「前田家累代之墓」は、今なお誕生地・小伏野集落の小高い丘の中にある。当時の田中井手集落には、わが家、隣家、向かえの家の、三軒があったにすぎない。
 わが家と隣家の間には水車を回し、双方に動力を伝えて、共に農家を兼ねた精米業で暮らしを立てていた。僅かに三軒にすぎなかったけれど、三軒とも大家族をなしていた。ちなみに隣家には11人、向かえの家は8人家族である。父は明治41年7月、村内にある辻集落の鶴井トジュ様と結婚した。新郎23歳、新婦20歳の若いカップルだった。二人は、長男護、長姉スイコ、二男利行、二女キヨコ、三男利清を誕生させた。戸籍簿上ではもうひとり、ハルミの名がある。ところが、何らかの事故で幼命を断っている。父にとっては先妻、私にとっては異母となるトジュ様は、享年35歳で他界している。
 その後の父は、大正14年7月、私の母となる早田トマルと二度目の結婚をした。母の里・井尻集落は、父が住む田中井手集落からは内田川や田んぼを挟んで、見えるところにある。再び花婿となった父の年齢は40歳、初々しい新婦は21歳だった。母は5人の子どもたちを連れた父の男ぶりに惚れたのか。それとも、父のもとへ嫁がなければならないのっぴきならない事情があったのか。私は前者であって欲しいと願った。ところが後者、実際には母の「父助け」があったようである。
 私は昭和15年7月15日、父の13番目、母の7番目の子どもとして生まれた。あえてきょうだいの名を記すとこうである。長姉セツコ、長兄一良、二姉テルコ、二兄次弘、三兄豊、四兄良弘、私、弟敏弘である。私が生まれて成長し始めると父は、拙い節回しで『丸まる坊主の禿げ頭……』とか、『箱根八里は馬でも越すが……』などと歌って、私をはやし、父ははしゃいだ。ときには父は、「どれどれ、また大きくなったかな。おお、大きくなっているぞ、天まで昇れ……」と言っては抱いて、高々と持ち上げた。父は背が高く骨太隆々で、まるで仁王のようであった。「気は優しくて力持ち」。物心がつき始めた私が見る、父にたいする第一印象であった。