連載『自分史・私』、2日目

 私の住まいは鎌倉市内にある、今泉台住宅地の中にある。とりわけ、山際の一隅にある。わが家を挟んだ住宅地の周回道路の先には、鎌倉の尾根を成す「円海山山系」が連ねている。この尾根は、通称「鎌倉アルプス」とも呼ばれている。ところがそれらの高名に恥じて、最も高いところでも標高は、159メートルほどにすぎない。尾根伝いには一本の山中道、すなわち長いあいだハイカーに踏み慣らされてきた「ハイキングコース」が走っている。ハイキングコースは、老若男女のだれもが突っかけ草履でも踏めそうな容易さである。そのせいかハキングコースは、近郊近在には名が知れて、かなりの人気を博し、休日には多くの行楽客が訪れる。
 私の生誕地は熊本県の北部地域に位置し、遠峯と里山に囲まれた山あいの盆地を成している。盆地をなす村中には、一筋の「内田川」が流れている。生前の父と母は、内田川から分水を引いて水車を回し、農家を兼ねて生業を立てていた。当住宅地の近くには、雑木や雑草がむさくるしく覆うせせらぎあるだけで、内田川を偲ぶほどの川はない。ところが、近場の山並はいつも、私に生誕地・内田村の風景を偲ばせている。このことは当住宅地に住む私にとって、大きな儲けものの一つとなっている。
 わが生誕地、今や故郷と名を変えた内田村の行政名の変遷を顧みる。明治22年の町村制の施行によって、山鹿郡内田村と六郷村、隣接して菊池郡城北村ができた。こののちの明治29年、鹿本郡の成立にともない、内田村と六郷村は山鹿郡から離れて鹿本郡に属した。昭和30年になると、鹿本郡内田村と六郷村、そして菊池郡城北村は、三村合併を成し遂げた。三村合併にあっては世の中のご多分に漏れず、お決まりのイベントが行われた。すなわちそれは、合併により誕生する新しい村にふさわしい、新たな行政名の公募が図られたのである。当時の私は、内田村立内田中学校二年生であった。多くの村人同様に私も、公募には大きな関心を持った。挙句、洒落た名前をあまた心中にめぐらした。ところが、一点に絞り切れずに、あえなく応募は頓挫した。