連載『桜つれづれ』、三日続き三日目(完結)

 昭和二十二年初旬、まだ桜の花が散り残る頃、私は熊本県北部地域にある当時の内田村、村立内田小学校の正門をくぐった。花の盛りは過ぎていたけれど、校舎周りの桜の花はいくらか散り残り、ピカピカ一年生の心は華やいだ。繋いでいた温もりのある母の手の平から離されると、同じように母親に連れられてきた友達に交じり、私はおそるおそる土間のコンクリートの上に置かれていた踏み板を踏んだ。そして、右脇にあった下駄箱に履いてきた運動靴を入れた。初めて、学校の廊下に上がった。素足だったか、靴下を穿いていたか、何かの上履きか、あるいはスリッパに履き替えたのか、これらの記憶はまったくない。廊下の感触はガタガタと音を立てた踏み板とはまったく違って、滑りこけるようなすべすべした感触だった。全身に、うれしさと緊張感がすばやく駆けめぐった。
 やがて、担任の渕上孝代先生の下、授業が始まると小学唱歌『さくら』を歌った。私は弥生(三月)の意味さえ知らないままに、馴染め始めたクラスの友達と大きな声で歌った。『さくら』を歌うとそれだけで、小学校一年生になった気分がこれまた全身に駆けめぐった。桜の花の季節になるといつも、私にはこのときの桜の花が懐かしくよみがえる。わが人生の原点(スタート)だったからなのかもしれない。そして桜の花は、こののちのわが人生行路に常に付き添っている。
 私は内田村で年月を重ねて、中学生、高校生になった。高校を卒業すると上京して、昭和三十四年、大学生になった。四年後の昭和三十八年、大学を卒業するとそのまま東京で、社会人一年生になった。これまた、新調の背広に身を包んだ、ピカピカの社会人一年生だった。しかし、このときの桜の花は、小学校一年生で見た内田村のものとは趣(おもむき)を異にし、華の都・東京で散り残っていた。
 桜の花は学び舎だけにかぎらず、そののちのわが人生行路の折節についてまわり、眺める風景は違っても、私自身を存分に愉しませてくれた。同時に桜の花は、常にわが小心を鼓舞し、強く生きるように励ましてくれた。換言すればわが人生行路は、桜の花との二人三脚とも言えるものだったのである。私には来年、還暦が訪れる。還暦とは、六十歳の異称という。そして古来、還暦の言い伝えには、六十年まわって再び、生まれた年の干支(えと)に還るというものがある。実際のところ私の場合は、童心すなわち小学校一年生の頃へ還るのであろう。だとしたら還暦、すなわち定年退職のおりに見る桜の花もまた、よみがえるピカピカの小学校一年生の気分で見たいものだ。しかしながらそれは、意図して還暦にことよせたわが切ない願望にすぎない。もとより、当時のように華やいだ気分で眺めることはできないであろう。欲のツッパリだけれど定年退職のおりに、仮にピカピカの小学校一年生の気分で桜の花を眺められたら、それこそ「祝還暦」に万々歳である。この先の一年のめぐりにあっては、私はできるだけそれが叶うように心して、身を引き締めた日常生活に努めようと決意する。そして、六十年を耐え忍び、再び迎える第二の人生のスタートにあっては、一陣の風に散り急ぐ桜の花のように、すぐに躓(つまず)き落ちないよう気張ろうと思う。実際の定年退職日は、きりよく西暦2000年(平成12年)9月末日である。できれば桜の花の散り際にあやかり、他人様に惜しまれて第二の人生へステップアップしたいものである。
 『桜つれづれ』、すなわち私は、つれづれに桜の花と総じて桜木のことを書いてきた。あらためて、なぜ? 書いたのかと、自問を試みる。答えは桜の花の咲き様と散り様が、私のみならず人生行路の浮き沈みに似かよっているからである。共に「哀歓」があれば、共に「哀感」だけの場合もある。桜の花は咲いて人に楽しみを与えて、散ることで人を悲しませる。人生行路もほぼ同様である。だから私は、桜の花にかこつけて、わが人生行路を心象に映して見たかったのである。
 桜の花はただ美しいだけで、人の心を惹くものではない。桜の花は咲いて散ることによって人に、ときには歓(よろこ)びと哀しみを(哀歓)をもたらし、またときには哀しみだけを(哀感)つのらせるのである。これこそまさしく、桜の花と人生行路がぴたりと符合し、共鳴するところでもある。両者共に、「盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)あり」。これにも人は共感をおぼえて、人生行路の折節に桜の花と出合うと人は、茨道を桜の花と共に歩むのである。