桜の花をめぐるいろんな思いを胸に収めて、私は桜の花の下を歩いて行く。時を合わせるかのようにウグイスが、「ホケキョ、ホウケキョケキョ」と、鳴いている。桜前線の北上を待っていても、待つほどには桜の花は、私の前に長居をしてくれない。桜の花が自然界の摂理に遭遇し、一夜にしていのちを絶った光景を何度目にしたことだろう。
桜の花のいのちの絶ち方は、みずからの病葉(わくらば)や桜木が枯れたせいではなく、多くは風の吹き荒らしのせいである。だから、その光景を見るときの私には、余計切なさが込み上げる。ときには澄み渡る青空の下、そよ風さえ吹かないなかで、チラチラと舞い落ちる花びらを見ることはある。しかしながら、桜の花のいのちの絶ち方の多くは、大嵐、小嵐、強風はたまた微風にとどまらず、一陣の風が吹けば追い立てられるようにあちこちへ舞って、落ち場所がわからないままに地上のどこかにべたつく。
桜の花が有終の美を飾ろうと花吹雪を満目に見せると人は、「まあ、綺麗」と言って、桜の花に愛惜と称賛の思いを募らせる。これこそ古来、「桜の花は咲いて良し、散りてまた良し」と、言われるゆえんである。鳥のように飛翔あるいは滑空する花びらを見上げて人は、散り際の美を誉めそやすのである。密をなしていた花びらは散りじりになりながら人の目に、終焉の華やかさを見せて舗道に舞い落ちて、こんどは花絨毯を敷き詰める。
桜の花の大団円は、バラバラになろうと、再び密になろうと、絵にも描けない晴れ姿である。ところがこれにはまた、常に切なさがともなって、桜の花が人にさずける美的風景でもある。もちろん人の終焉は、こんな感興にはなれない。散り際の美的風景にあずかる人の心は、散りゆく桜の花の嘆きなどつゆ知らず、しばしその見事さに酔いしれる。一方、心ならずも有終の美を飾った桜の花は、その先には一年間の眠りに就く。そして、薫風に葉桜が緑を深める頃や、晩秋に朽ち葉が紅色や黄色に染まる頃には、こんどは桜の花に替わって桜木自体が束の間、また人の口の端に上るのである。
こののちの桜木は、葉っぱを落とし尽くして、裸木をさらけ出して冬ごもりに入る。そして、いっとき桜木は、人の口の端から消えてゆく。いやときには、「桜木には毛虫が着き易いから、わたしはサクラが大嫌いです」などと言われて、お門違いの声に晒されることもある。この季節の桜木は耐え忍ぶことこそが、再び訪れるわが世の春までの美徳なのだ。
強風をともなって夜来の雨が容赦なく降った朝、私は山あいの通勤道路を急ぎ足で歩いて行く。濡れた靴底のぬめりを通して、全身までもが濡れている気分になる。きのうの帰り道には夜桜として見上げた花びらは、一夜にして朝の舗道に打ちのめされていた。私は死に神にでも取り憑かれたかのような気分になり、舗道に濡れ落ちている花びらをできるだけ踏むまいと、全神経を尖らしている。ところが、思いとは逆に私は、いっそう歩度を強めて、速めて、歩いて行く。私は濡れ落ちている花びらに湧いた束の間の同情心は捨てて、鬼心に変えている。靴底にまつわりつく花びらを避けることはできない。いや、心ならずも蹴散らすばかりである。なぜなら、このときの通勤の足は、わが生計を立てるための無情の足なのだ。
わが家から最寄りの「JR横須賀線北鎌倉駅」までは、急ぎ足で歩いても二十分ほどかかる。途中の山道には桜の花の頃にあっては、ソメイヨシノ、大島桜、そして野生の山桜などが、てんでんばらばらに咲いている。ところが、通勤を急ぐ私には、それらの織り成す美的風景を眺める心の余裕はない。代わりに出遭えるのは、舗道に敷き詰めている濡れた花絨毯の汚(きたな)らしい光景である。
夜来の雨の上がった朝の通勤道路は、濡れた花絨毯との葛藤の場と化している。濡れた花絨毯を無下に踏むときはやはり切ない。しかし、惨(むご)たらしく踏んででも急がなければ、乗車を予定している電車に乗り遅れるのだ。私は濡れた花絨毯をさらに小汚く蹴散らし、ときには駆けて北鎌倉駅へ急いだ。乗車予定の上り電車は寸分の狂いなく、十五両を連ねて長いプラットホームに滑り込んだ。間に合って、安堵した。
夜来の雨上がりの冷たい朝だったが、私は背広のポケットからハンカチを取り出して汗を拭いた。幸運にも、座れた。革靴の周りに濡れた桜の花びらがついているかどうかを確かめた。私はズボンの裾に跳ねついていた花びらを、そっとテイッシュで取り、カバンに入れて車内に目を逸らした。