第75回コスモス文学新人賞奨励賞「随筆部門」『桜つれづれ』前田静良。
定年後を見据えて独り、手習いを始めた頃の文章です。だから、拙くても愛着があります。三日間、掲示板を汚します。お許しください。あしからず。
平成十一年、鎌倉の桜の花は都心より遅く咲いた。春先に吹き荒れる風を避けられるから、遅れても恨みつらみはない。いや桜の花は、少し遅れて咲いたほうがいい。春先の風を避けるためだけではなく、桜の花には開花を待つ楽しみもある。つれて、桜の花に関わる話題や賑わいも長くなる。桜の花は咲けば散る。あたりまえだけれど、咲いてすぐに散ってしまっては、一年周りに咲いた桜の花、そしてそれを待っていた花見客、どちらにも残酷無念である。
桜の花の天敵は風である。風と桜の花は、自然界にあっては仲間同士なのに、なぜこうも相性が悪いのだ。確かに、人間界にもそういう仲間同士のいざこざやいがみ合いは多々ある。桜の花が咲く頃の風は、一点集中、桜の花を狙い撃ちでもするかのように吹き荒れる。特に春先の風は、桜の花にたいして悪態のし放題である。それはどこか、人の世にありがちな怨念晴らしのようにも思えてくる。はやり言葉で言えばそれは、桜の花にたいする風のリベンジ(復讐)にさえにも思えるところがある。人の叶わぬ願望だけれど、春先の風は、桜の花を気遣いそよと吹くくらいでいい。ところが風は、桜の花の美しさと、それを花見客が愛(め)でそやす人気をやっかんでいるのであろうか。それとも人には見えないけれど、リベンジしたくなる理由でもあるのだろうか。風は、桜の花にたいし気配りの様子など、一切見せずに吹き荒れる。風は泰然自若としているように思えるけれど、もとより未知の自然界のことゆえに、人にはわからずじまいである。理由はどうあれやはり、「風さん、おとなげないね」。
自然界の雄である風には、人に取り憑(つ)く悪い性(さが)だけは、真似てほしくないものだ。人の願いを重ねれば、風には仲間の桜の花の美しさなど妬(ねた)まず、超然としてその美しさを褒めそやすくらいのおおらかさと優しさがあってほしいものだ。モノ言えぬ桜の花は、唇を嚙み、涙を浮かべ、身を縮めて、ひたすら風の収まりを待つしかないのだ。ところが風は、ときには雨や嵐までをも味方につけて、とことん桜の花を虐め尽くすのだ。確かに、桜吹雪という両者、すなわち風と桜の花が織りなす万感窮まる美的風景はある。風とてこんな至高な芸当、やればできるのだ。
人は風と桜の花の織り成す豪華絢爛たる春景色を、少しでも長いあいだ眺めたいのだ。だから人は、風には一年周りに訪れた桜の花の晴れ姿を、人と一緒に観賞するくらいの太っ腹であってほしいと、願わずにはおれない。しかし風は、切ない人の願望など、つれなくしりぞける。それができないならこの季節、私は判官贔屓になり桜の花に向かって、「風なんかに負けるなよ。とことんねばって、頑張れよ」と、声を掛けたくなる。
人は皆、絶えず自然界とかかわり合いながら生きている。季節が移り、草木が芽吹く頃になると私は、重たい冬衣を脱ぎ捨てる。同時に私は、待ちわびていた春を体の中にいっぱい取り込みたくて、閉じていた心象をいそいそと開くのである。しかしながら訪れた春は、必ずしも楽しさ一辺倒とはかぎらず、春特有の憂愁気分を引き連れてくるところがある。
強風が吹いた三月末にあって、桜の花はまだ五部咲き程度で、風はいくらか空振りを食らった。ところが、この時期の風は一夜にして豹変し、強風や嵐が吹き荒れる。すると桜の花は枝葉もろともに、まるで強い海風に煽られる帆掛け船のように揺れ動く。挙句、ようやく咲いたばかりの花びらを地上に落とされる憂き目を見る。耐え残った桜の花は、一年周りの人との出会いの約束を果たすかのように、(決して、散るまい、挫けまい)という、声なき声をたずさえて、なお耐え抜いてくれるのである。そして、風の妬みと悪態をかいくぐった桜の花は、その先にこんどは、人の目に散り際の美的風景を演じてくれる。
桜の花の咲き方や散り方を眺めていると私は、桜の花にことさら人情を重ねて、様々な思いをめぐらしている。桜の花の咲き様そして散り様は、人の生き様そして死に様を見るようでもある。だから人は桜の花を仰ぎ見ながら、みずからの人生行路を考察したり、あるいは顧みたりするのである。