連載『少年』、二十日目(完結)

 日本の国が敗戦後のいたるところで復興の槌音を鳴らしていた頃、父は人生の仕上げどきを迎えていた。やがて父は、母長男の一良兄を後継者と決めて家督を譲り、ひねもす老境生活に入った。働き盛りの頃の父は、大車輪で働いていたと、母はもとより父の働きぶりを知るきょうだいのだれもが言った。それもそのはずで父は、異母から母に繋いで、子沢山(十五人)を養う大黒柱だったのである。しかしながら、父の五十六歳のおりに生まれた少年には、父の働きぶりと精悍な姿は、伝説上の語り草にすぎなかった。少年が見る父の姿は、村中の将棋仲間を呼んで、縁側で一日じゅう将棋を指す姿だった。
 言葉が出始めると少年は、父を「とうちゃん」と、呼んだ。父は、すでに禿げ頭だった。「じいちゃん」と呼んでいいほど、顔などは皺くちゃだった。少年の年齢が進むと呼び名は、「おとっつあん」に変わった。他人様との会話のときなどでは、わきまえて「父」と言った。物心ついて呼び名が替わるたびに、少年の父への敬愛心はいや増した。少年は後年、美空ひばりが歌う、『波止場だよ、おとっつあん』という、歌がとても好きになった。少年は、歌の中の「粋なマドロス姿」に、父を重ねていたのである。少年はしょっちゅうこの歌を歌って、父への思いをふくよかにした。父を知る人は他人様でもみんな、父は飛びっきりの働き者だったと言う。このことは、母が少年に父のことを話すときにはいつも、まるで枕詞のように離れずついていた。母は父を信頼し、敬慕し、すべてに頼り切っていたのである。
 確かに少年は、不断の母の言動で、母の父への信頼度は知りすぎていた。後年、母が父のことで述懐した言葉が常に、少年には宝物としてよみがえる。母は「おとっつあんは偉かったたいね。家にはしょっちゅう、大工さんや左官屋さんが来ていて、なにかしらの造作をされていたばい!」と、母は言った。敗戦後の日本の国の復興に合わせて、少年の家でもみんなが懸命に働いた。内田村でも村人は競って働いた。その労働は、金目の細い糸を手繰るかのように村人はみな、お金を求めて奔走した。時代が「金、金」と鳴り響くおりにあって少年の家には、カナヅチやカンナの音が響く幸福に、母は酔いしれていたのだ。そもためか母は、父の愛情に報いる、とっておきの言葉をこう言った。
「おとっつあんが優しかったけんで自分は、とても幸せだったたいね。トジュ様大勢の子どもたちがいる後入りにきても、おとっつあんがいい人だったから、自分には何の苦労もなかったたいね」
 すでに亡き父にたいして母は、心中に溜め込んでいた万感の思いを引き出し伝えるかのように、満ち足りた表情で少年に言った。このときの母は、大勢の子どもたちの母と言うより、明らかに父を愛する妻の一心になっていた。
 少年は母の言葉で、うれしい事実を知ることができたのである。事実の一つは父の優しさであり、もう一つは、母の人生はかぎりなく「幸福だったのだ」と、いうことである。母は後入りという結婚条件、そして先妻のトジュ様から自分に引き継いだ子沢山の子育て模様、さらには農家や精米業の内仕事また家事の多忙に晒されても、母の建前の人生は、幸福にありついていたのだ。母はトジュ様から渡されたバトンを確りと自分の手に握り替えて走り続けてきた。そして母は、変則的な結婚や子育てを、幸運にも他人様から非難や侮蔑を被ることなく、最愛の父を慕ってあの世へ旅立ったのである(享年八十一歳)。母の忍びの人生は、「田中井手」の父の下で二十一歳から始まり、六十年をかけて「幸福」というたった二字のご褒美へたどりついたのである。だからこそ「母の幸福」は、少年には飛びっきりうれしいのだ。
 しかし、実際には母の人生は、苦労を限界までに耐え忍び、それを幾重にも重ねたはずだ。それを思うと少年は逆に、母の幸福とはこんなにも薄っぺらいものであり、母の人生は儚いものかとも思う。母は耐えて泣かなくとも、少年は耐えきれずに泣きたくなる。
 昭和二十六年十二月、少年の家には結婚式があった。母一男の一良兄(長男)が、村中の相良集落から花嫁さんを迎えたのである。花嫁さんは、父の甥っ子の長女にあたる縁戚の人であり、少年も日頃から知っている人であった。母一女のセツコ姉(長女)が嫁いで以来、少年には「姉さん」と呼ぶ人はいなくなっていた。セツコ姉の結婚式は、少年が小学校二年生のときだった。だから、新たな姉さんができたときの少年は、うれしくて跳びはねた。文字で書けば「姉」と分けて、「義姉」と書かなければならないけれど、日頃から知っていたことでもあり、少年は言葉の発音にすがり「姉さん」と、書きたいと思う。
 姉さんが一良兄の新妻として少年の家に来たのは、少年が小学校五年生のときだった。少年が五右衛門風呂に入っていると、初々しい花嫁さんは少年にたいして、「しいちゃん、風呂はぬるくはにゃあな、ぬるいなら言いなっせ、たきもんばくべちやったい……」と、いつもの姉さんの「相良言葉」丸出しで、湯加減を聞かれた。少年はとっさに、「よございます」と、言ってしまった。それは緊張のあまり、少年がこれまでまったく使ったことのない、よそ行き言葉だった。だから、ぎこちなかった。少年は「ぬるくは、にやあばいた……」と、言えばよかったけれど、後の祭りである。少年は風呂の中で、湯でのぼせてしまい、全身がタコ茹でのようになっても恥ずかしさで、風呂から出るのを我慢した。嫁いで来られると姉さんは、少年を「しいちゃん」と、呼ばれた。少年にはうれしい、こそばゆい言葉だった。
 明くる昭和二十七年、一良兄とフクミ姉さん(義姉)には、長女の良枝が生まれた。このときの少年は、小学校六年生だった。小学校の最後になり、少年には楽しさと同時に子守りの家事手伝いが増えたのである。少年は学校から帰るとすぐに、良枝を背中におんぶして子守りをした。背中の良枝は少年に似て骨格が太く、少年の肩に食い入るように重かった。一方で少年には敏弘をおんぶしたときの兄の気分は、こんどは妹をおんぶしたような兄の気分になっていた。小学校六年生、すなわち少年の少年時代の最後を飾るにふさわしい、懐かしい思い出の一つである。
 内田村の夏は、ときにはまるで南洋の島にでも住んでいるかのように暑くなる。裸足で遊びまわる少年の足裏は、燻(くすぶ)る残灰を踏んでいるように熱くて、痛かった。少年は熱さ凌ぎに、雑草が覆う畦道をしばし踏んだ。ところが畦道も、まるでホームカーペットのように熱くなっていた。
 家人や村人たちは昼寝から覚めると、農作業や田畑の見回りに出かける。小鳥たちは羽ばたいて塒(ねぐら)へ戻る。夕陽が沈むと、内田村の暑かった夏の一日は暮れてゆく。内田村は、川の恵み、田畑の恵み、山の恵みに負う鄙びた村である。それらに、村人の人情が重なり合って、のどかな村の情景を映し出している。だから少年は、感謝のしるしに内田村のことを繰り返し書いてきたのである。それでも、まだ書き足りないところはいっぱいある。少年は内田村が自分を健やかに育ててくれたと、固く信じている。少年は、内田村が好き、父が好き、トジュ様が好き、母が好き、異母きょうだいたちもみんな好き、母きょうだいたちもみんな好き、小学校六年間の担任、渕上先生、徳丸先生、家入先生たちもみんな好き、文昭君と宏子さんが好き、子どもの頃の近所の遊び仲間も大好き。少年は、みんなが好き好きである。
 少年は内田村に生まれて、名を連ねた人たちに助けられて、少年時代の命はつつがなく育(はぐ)まれた。だから少年はお礼返しに『少年』を綴り、生まれてから小学校六年生頃までの少年時代を書きたかった。少年は萌え出たばかりのレンゲソウ畑に寝転んで、青い空を見上げている。「冬来たりなば、春遠からじ」。冬枯れの季節もいい。清澄な山の佇まいもいい。清冽な川の流れもいい。春が来た。内田村の春は、少年をあたたかく迎えている。少年の心は十分に満ち足りて、全天候型に晴れわたっている。