少年にとって夏の内田川は、レジャーランドとなった。日課の『夏休みの友』やほかの宿題を終えると少年は、午後には内田川の中にいた。少年は猿股パンツ一つで裸になり、夏休み中内田川で遊んだ。このため少年の体は、まるで黒棒菓子みたいになり、裸の体は黒光りした。黒光りの少年の体が水に飛び込むと、白く水しぶきが上がった。少年の家は内田川の川岸に建っていた。母は少年の家の裏道を通り川辺に立ち、川中の少年に大声で叫んだ。
「しずよし。茶あがり(三時のおやつの時間)だよ、水から上がって、帰って来んかあ……」
少年にとっては母が呼びに来るまでが、午後の遊びの第一ラウンドだった。母に呼び戻されて家に帰ると、茶あがりの用意ができており、テーブルの周りには父が座っていた。茶あがりのメニュー(献立)は、ほぼ夏の間じゅうは明けても暮れても飽きずに、ソーメンばかりだった。父がソーメンを大好きだったためであろう。ところが少年はソーメンを食い厭きて、そののちトラウマ(精神的外傷)になり、今なお嫌いな食べ物の一つになっている。夏の間、テーブルは釜屋(土間の台所)に置かれていた。少年は裸の体を河童のように水浸しにしたままに、テーブルを前にして椅子に座った。少年は濡れた体のまま、半ば義務のようにソーメンを一気に啜った。ソーメンの良いところは、嫌いでもスムースに喉をスルスル通ることである。少年にとっては、ほぼ毎日訪れる茶上がりどきのおざなりのソーメンの食べ方である。ところが、少年が好きな食べ物もあった。それはソーメンの後にテーブルに乗る西瓜だった。
少年は茶上りが済むと、再び内田川へ走り込んで、西瓜で膨れた体を水中に沈めた。このときが、午後の遊びの第二ラウンドの始まりである。少年は、内田川とその水にたっぷりと戯れた。こののち、第二ラウンド終了の合図の鐘の代わりをしたのは、西の空へ沈む茜色の夕陽だった。
夏休みが終わると、二学期が始まった。少年は遊びすぎた疲れがとれないままに、物憂げに登校した。少年は夏休みの友やほかの宿題も完結に終えて、二学期の始業式を迎えた。始業式の後まもなく、夏休み前に伝えられていた「校内黒肌大会」が行われた。黒光りする少年の体は、白みの友達の体を圧倒して、「一等賞」に選ばれた。担任の渕上先生はいつもの優しいニコニコ顔で、「元気に、たくさん水浴びしたね」と言って、少年を褒められた。少年はそのことを母に伝えたくて、飛ぶようにして家に帰った。精米仕事中の母は、いつものように戸口元で少年を迎えた。少年は母に向かい跳びはねて、「かあちゃん、一等賞、とったよ。渕上先生から、褒められたよ。」と、言った。母は笑って少年の毬栗頭を撫でながら、すかさずこう言った。
「そうや、一等賞だったや、あんたには裏ん川があって、よかったばいね。一等賞になれば、なんでもええたいね。よう、がんばったね」
少年は、渕上先生と母に褒められて、うれしかった。一気に、夏の遊びの疲れは消えた。
少年が三年生になると担任は、渕上先生から男性の徳丸普可喜先生に替わった。少年はすぐに、徳丸先生も好きになった。徳丸先生は、少年の三年生次と四年生次の二年間の担任だった。そして、五年生次と六年生次の担任は、男性の家入喜人先生だった。少年は家入先生にもすぐに慣れて、好きになった。少年の小学校六年間の担任の先生は二年刻みで、最初は渕上先生、次は徳丸先生、最後は家入先生だった。少年はどの先生も好きになった。そのためか少年は、内田小学校の六年間を無欠席(皆勤賞)で終えたのである。
学年が上がるにつれて少年の関心事は、だんだんと教室外へも向いた。これを手助けしてくれたのは、新聞とラジオそして雑誌だった。父や兄たちは、購読紙・西日本新聞を貪(むさぼ)り読んでいた。これに感化されたのか、少年も負けずに読んだ。特に、好きなスポーツ欄は記事を漁り、あとまで記憶に残るように丁寧に読んだ。中でも好きな野球の記事は、プロ野球、都市対抗野球、高校野球、大学野球、など様々に、どれもこれも一様に貪り読んだ。
プロ野球では阪神タイガースが好きな球団になった。タイガースは、巨人(読売ジャイアンツ)と競ってはいたけれど、勝者にはなれなかった。なぜならタイガースは試合と人気においていやすべてに、ジャイアンツには敵(かな)わなかった。ジャイアンツの人気選手は、背番号16番の川上哲治一塁手だった。川上選手は少年のふるさと県・熊本の人吉市出身で、旧制熊本工業中学を経てジャイアンツに入団し、一世を風靡するほどの球界一の大打者そして、人気ナンバーワンの誇り高き名選手である。それゆえ友達のみんなは川上選手が大好きで、自然とジャイアンツファンばかりだった。もちろん少年もまた、熊本出身ゆえに川上選手の大ファンだった。ところが、球団となると別だった。タイガースには個人人気の面では川上選手に対抗する、背番号10番の藤村富美男三塁手がいた。藤村選手は、少年には縁もゆかりもない広島県の旧制呉港中学の出身である。それでも少年は、なぜか? 藤村選手が好きになり、そのままタイガースファンになったのである。
少年がこんな突拍子もないことでタイガースファンになったのは、たぶん少年自身が父のいきかたに一脈相通じていたのかもしれない。少年はいまさらながらにそう思う。父は極端な判官贔屓(源義経ファン)だった。判官贔屓とは、強い者より弱い者に味方する心根である。確かにタイガースは、何かにつけてジャイアンツには勝てない球団だった。好きな藤村選手も、川上選手にはすべて敵わない。だから少年は父に似て、判官贔屓という理由だけで、タイガースファンになったかのように思う。挙句、少年は、未踏はるかに遠い大阪府と兵庫県(神戸)を本拠地(ホームグラウンド)とする、阪神タイガースのファンになってしまっていたのである。
判官贔屓には悔いはなく、今なお高じたままに頂点を極めて、「トラキチ」に変じている。雑誌はたぶん、友達の中でも少年だけが親に買ってもらっていたと思う。雑誌名は『少年倶楽部(クラブ)』である。少年が月一回の発行を待って貪り読んだのは、人気抜群の連載漫画『のらくろ』だった。