少年はまた、内田川のことを書いている。少年の独り善がりの文章など、だれも読まないから気楽に何度も書けるのだ。少年の家は、川の上流から中流にかけて位置している。裏戸を開けると下手の方では、太陽の照り返しが白く水面を舐めて、竹山の隙間の向こうには、青い水が輝いている。どちらかと言えば裏の川は、まだ上流である。向こう岸と少年の家の間を流れる早瀬の音、浅瀬のせせらぎ、溜まりにたゆとう水は、あいなして四季折々に周囲の風景と調和する。内田川はそのたびに、少年の心を和ませた。少年はしばし深呼吸を繰り返し、川風を咽頭へ呼び込み、いっぱい吸った。新鮮な空気がはらわたに落ちると、少年の心身は一層和んだ。
少年の家は、内田川の河川敷際に建っていた。当時、少年の家には、水道や自前の井戸はなかった。内田川の水が当然のように少年の家に、生業の水車用の水と生活用水を恵んでいたからである。裏戸を開ければ内田川が流れている。内田川に堰を作り、水車用に自前の水路が設けられていた。分水は水路を通り、庭先はもちろんのこと、母屋の台所の中にまで引き込まれて流れていた。少年の家の内外には日常的に、内田川の水がたっぷりとあった。だからたぶん、当時の父と母は、そんな施設は用無しと決め込んでいたのかもしれない。それほどに少年の家は、内田川とそれが恵む水に密着し、大家族の命を育み、暮らしの生計を立てていたのである。換言すれば、少年の家の生活の中に、内田川が流れていた。そのぶん、少年の家の上方の家で赤痢や疫痢の発生が伝わると、少年の家はみな恐々としなければならなかった。
内田川は川中に点在する大きな岩や小石にあたり逆巻いたり、水しぶきを高く上げながら流れている。それでも、それを凌げば緩やかな流れになる。これは、雨のない日の内田川の流れの情景である。しかしながら内田村にあっても、少年、家人、村人に優しいばかりの山河はあり得ない。なぜなら自然界は、四季折々に人間に目を剥く恐ろしさをたずさえている。山紫水明に恵まれた内田村にあっても自然界は、ひとたび変調をきたすと防ぎようのない狂態を露わにした。
内田川は台風のたびに暴れ川となり、少年の家に恐怖と被害をもたらした。村中のあちこちでは土砂崩れが起きて、荒れた山肌を剥き出しにした。あるときは山津波が発生し立木を倒し、崩落した土砂に立木と岩石が混じって流れて来て、近くの民家を襲って家人の死亡事故を招いた。少年の家もそうだが、内田川にすがり川辺で水車を営む家は、川が増水するたびに恐怖に見舞われる。すると、地区の消防団の防災監視下に入った。少年は止みそうもなく土砂降りを続ける雨と、時々刻々に増水を極める内田川を、茶の間の窓ガラスに額をつけて立ったまま、じっと眺めていた。すると少年は、内田川の水嵩が増すたびに、怖くて泣きべそをかいた。降りしきる雨はいつになったら小降りになり、いつ止むのか。濁流の水嵩は、流石と流木のからむ轟音をともない、寸時に水勢をいや増して行く。
農作業用の二階建ての「しのば」(仕事場)は、河川敷の端に礎石を置いていた。母屋とて礎石と内田川との間は、河川敷を挟んで20メートルほどの近距離である。水嵩が増すたびに内田川は、河川敷を狭めては川幅を広げて、濁流が礎石へ迫ってくる。少年は恐怖に慄き、体の震えが止まらない。「生きた心地がしない」という表現は、このときこそ「ぴったしカンカン」である。
少年は豪雨と強風のなか、家人を探した。しかし家人は、しのばと母屋の点検防備に走り回っている。少年の泣きべそは、あふれる涙に変わった。土砂降りが細くなりかけ、空がうっすらとしはじめて、家族そろって「ああ、無事だった」と、嘆息を吐けるのだった。確かに、内田川にかぎらず内田村の山河自然は、少年の家の家族や村人に大きな恐怖を与えた。一方、内田川と内田村の山河自然は、恐怖をはねのけて村人の命を育んでくれた。だから、少年が感謝することこのほかにはない。この御恩返しに少年は、何度もひたすら内田川はもとより、内田村の山河自然を愛(め)で書いている。もちろん恥じたり、書き厭きることはない。ただひとつ少年にとって残念なことは、内田川は少年の唯一の弟・敏弘の命を助けずに、こともあろうに内田川の分水(水路)へ流してしまったことである。