GHQ占領下の日本の国の舵取りは、良いにつけ悪いにつけ個性派首相と言われた吉田茂が握ることとなった。吉田首相は、ときには傲慢とも思えるワンマンぶりみせて顰蹙を買った。一方では、育ちの良い憎めない愛敬を持ち合わせていた。吉田首相は、硬軟併せ持っていたと言っていいだろう。特に外交においては硬、すなわち豪胆ぶりを発揮した。その証しに吉田首相は、GHQの占領下にもかかわらず、GHQにおもねるだけの政治姿勢はとらなかった。吉田首相は、負けた国のリーダーにありがちな卑屈さなど微塵もみせずに、真っ向GHQと対峙した。内田小学校二年生になった少年は、父がラジオや新聞を通して政治や社会問題などに強く関心を持っていたことからその影響を受けて、少しずつ社会の動向に関心を寄せていた。吉田内閣は、七年間の長期政権をまっとうした。
昭和二十三年一月、少年の家には一つの婚儀があった。母一女のセツコ姉は、当時はまだ近隣の村・六郷村の島田集落の義兄に嫁いだ。少年にははじめて体験したきょうだいの結婚式だった。戦地に赴いていた男性軍が復員、すなわちわが家へ帰り始めて、女性軍はそれを待って内田村には結婚式が増えていた。結婚適齢期だった姉もまた、この範疇の一人だったのであろう。戦地帰りの男性軍との出会いは、銃後の守りに明け暮れていた女性軍にとっては、まさしく「敗戦後のあけぼの」とも言える果報だったのである。なぜなら戦争は、適齢期の男女の交際や結婚にまで、奇妙な現象をもたらしていた。将来の約束をして、帰らぬ人それを待つ人。出征前にあわただしく形だけの結婚式を挙げて新妻となり、帰らぬ夫を耐えて待つだけの人もいた。戦争は人々の心と生活に重石を乗せていたのである。
この文章はすでに世を去ったきょうだいへの少年の鎮魂の役割と、きょうだい愛を繋ぐ役割でもある。だから、少年の知らない異母きょうだい(兄と姉)の結婚模様を記すのは、あながち蛇足とは言えない。しかし、読む人はいないであろう。それでも一向にかまわない。なぜなら、多くのきょうだいの中で、一人残された少年の役割だからである。異母一男護兄はイツエ義姉と昭和七年十月、異母一女スイコ姉は栄次義兄と昭和八年六月、異母二女キヨコ姉は秀雄義兄と昭和十七年三月、そして異母二兄利行兄はチズエ義姉と昭和十八年三月。異母三男利清兄は結婚の夢叶わず、異国の島で名誉の死という飾りを付されて戦死した。異母の兄姉たちが青年淑女の頃の新郎新婦ぶりは、どういう情景をみせていたであろうか。ただ、時代は華やかには味方せず、日本の国は満州事変を発端にして、戦時下と戦時色を深めていた中だった。それでもやはり、新婚気分は「いいもの」であったはずだと、少年は思いたい。その点、母一女セツコ姉の結婚式は、少年が生まれている戦後のことでもあり、そのうえ少年に物心ついた小学校二年生のときでもある。だからわずかでも、少年の記憶の中にある。一つは祝儀を前にして、姉の様子
は弾んでいた。一つは、義兄は中国大陸の戦地から帰り、姉を見初めたのである。異母一男護兄と義姉の出会いには、恥を晒しても書いておかねばならないことがある。それは珍妙と言うより、確かな実話だからである。まずは護兄に嫁いだイツエ義姉は、母の一男四女のきょうだいの中で、二女母の実の妹(四女)であった。すなわち父は、姉の母と、そして長男護は、母の妹と結婚している。二つ目の実話はまだ続く。姉(母)と妹(義姉イツエ)の子どもたちのうちの三人は、誕生年を同じくする同級生でもある。あえて書こう。母三男豊と義姉一女京子ちゃん、母四男良弘と義姉二女静代ちゃん、そして、母五男少年(静良)と義姉一男彰ちゃんである。少年と彰ちゃんは同級生でありながら、叔父と甥、なおいとこ同士の関係でもある。戦争資材さながらに、「産めや増やせの時代」とはいえやはり、少年の家の子どもたちは、異母から母に継いで、表彰状に値するほどに多すぎた。しかし少年は、恥で顔を赤らめることはない。なぜなら、むかえの田中さんには六人、隣の古家さんにも九人の子どもたちがいた。
少年が臆面もなくこんな文章を書けるのは、父と異母そして母、その子どもたち(きょうだい)の繋がりに、一切の諍いもなく全天候型に仲がよかったおかげである。大勢の子どもたちは勝ち戦であれば日本の国を救う玉財になり得ても、負けてしまえば糊口を凌ぐにはやはり大家族でありすぎた。水車を回し農業を兼ねて、自給自足に頼る少年の家にも、生きるための厳しい生活が待ち受けていたのである。朝鮮半島からは異母一男護兄(長男)の家族が引き上げて来て、上海からは気象庁の職員(独身)として出向いていた母一男一良兄(長男)が帰って来た。一良兄とフクミ義姉の結婚式は昭和二十六年、少年が小学校五年生のときだった。だれにとっても華燭の典は、文字どおり人生の華である。きょうだいの中でそれを叶えられなかったのは、異母三男利清兄(戦死二十三歳)、母二女テルコ(病没十八歳)、母六男少年の唯一の弟敏弘(事故死生後十一か月)である。今、少年目からは涙がポタポタと落ちて、三人の面影が蘇っている。