連載『少年』、十四日目

 内田小学校一年生になった少年には、「夏休み」のある夏が四季のなかでは、一番好きな季節になった。少年は母に、「『夏休みの友』は、暑くならない午前中にやるからね」と、約束した。夏休みにはこのほかにも漢字の書き取りや、日記ないし自由課題の生活文などがあった。ほかにも、宿題があったと思うが思い出せない。
 母と約束した午前中の勉強が済めば、夏休みの午後のすべては、少年の遊び時間となった。少年は畳敷きの表座敷ではなく、冷やっこい板張りの座敷に足を投げ出して、背丈の低い横長の文机(置き机)に向かった。ページをめくる感触、鉛筆の音、ときおり柱時計が「ボーン、ボーン、ボーン……」とけだるく鳴って、まだ静かな夏の朝の雰囲気を醸した。夏休みにあっては、精米機械の音なども普段とは違って聞こえて、やかましいとは思わなかった。少年は母と、午前中に勉強を終えれば、午後は川遊びに行っていいという、約束もしていた。少年は家の裏を流れる川へ、または「田中井手橋」の堰の下へ、水浴びに出かけた。
 「内田川」は橋の下をくぐり、少年の家の裏へ流れて来る。夏の内田川に真っ黒い体の少年が飛び込むと、辺り一面に白い水しぶきが舞った。夏の内田川は、水の瀬清く緩やかに流れている。ウナギ、ナマズ、ドンカチ、シーツキ、ゴーリキ、カマヅカ、ハエ、なども泳いでいる。夏の内田川は、少年たちを夕陽が西の空へ落ちるまで、存分に遊ばせてくれた。少年に負けまいと競って水に飛び込むのは、声を掛け合って出かけた隣近所の子どもたちで、洋ちゃん、賢ちゃん、新ちゃん、だった。
 少年は内田川のほとりに生まれたことがうれしくて、内田川は少年の自慢の川となった。子どもたちは夏休みが終わるまで、内田川で無邪気・天真爛漫に遊びほうけた。少年にとって、戦時下、終戦(敗戦)、そして敗戦後の記憶は、ごちゃまぜである。だからこの文章は、ときにはちぐはぐというか、頼りない記憶のままに書いている。なかでも時のずれは、ご容赦願うところである。
 忌まわしい昭和二十年もラジオから『リンゴの歌』が流れて、日本国民は少しずつ敗戦の憂さを晴らし始めた。この歌は、戦争で憔悴しきっていた国民の心を捉えた。『リンゴの歌』は軽いリズムで、弾むようなメロデーだった。曲の明るさは、きょうやあしたをどう生きようかと、思い悩む国民への格好の応援歌となった。明るく流れる『リンゴの歌』を聞いて国民には生気が戻り始めて、敗戦国日本には復興の明かりがともろうとしていた。
 戦地で生き延びた人たちは祖国日本へ、疎開先からはわが家へ帰って来る人が増えた。敗戦後の混迷や混乱は収まりかけて、日本国民ははっきりと前を向いた。しかしそれはまた、新たな敗戦後処理の序奏と幕開けでもあった。占領下の日本の政治に、GHQ(連合国総司令部)の縛りが加わったのである。間接とはいえ有無を言わさず、GHQの意向が日本を支配した。占領軍はほとんどアメリカ軍で固められて、占領政策はアメリカ主導で行われた。GHQは占領国日本にたいし、数々の指令を発した。GHQは日本社会の改革に向けて、様々な処方箋を企図し要請した。それらの根幹は、日本の古い政治体制や社会慣習に「民主主義」を基に変化を求めるものだった。実際にもそれを基に、いろんな面に改革の賦活剤が処方された。ところがこれらの処方箋は、衰弱しきっていた日本の国にはきわめて苦い薬だった。しかしながらのちに顧みれば、「良薬は口に苦し」の成句があるように、日本の国にとっては必ずしもすべてが苦いものばかりではなかったであろう。
 民主主義の国アメリカの占領政策は、喧嘩に勝ったガキ大将のように、負けた者へのわがままのし放題とは、だいぶ違っていた。なぜなら、GHQの占領政策は、日本の国や国民にたいし、かなりの温情や配慮がされていたのである。もしかりに日本が戦争に勝って、占領政策を執る立場ともなれば、それこそ日本軍はただ威張り散らし、我がままのし放題ではないだろうかと、少年は思った。日本の国の政治は、敗戦後の初めての総選挙を通して社会党内閣が誕生し、片山哲が首相になり、片山内閣を組閣した。しかし片山内閣は、社会党、民主党、国民協同党の三党連立のせいで政治基盤が弱く、片山内閣は一年足らず終焉した。そして、昭和二十三年二月、こんどは民主党の芦田均が首相になり、片山内閣に代わり芦田内閣を組閣した。芦田内閣は中道政治を進めた。ところが、疑獄事件で足元を掬われて、芦田内閣もまた、片山内閣同様に短命に終わった。
 これより先、昭和二十一年に誕生した第一次吉田茂内閣は、途中を中道政治に譲ったものの昭和二十三年に第二次吉田内閣として復活した。少年は内田小学校の二年生に進級し、担任は持ち上がりでそのまま、渕上孝代先生が教壇に立ってくださった。そのため、少年の小学校二年次の学校生活は楽しく続いた。