連載『少年』、十二日目

 昭和二十二年の春先から初夏にかけては、少年の入学式、始業式、授業参観、家庭訪問などがあって、少年の家は学校とのかかわりが多くなっていた。家庭訪問の日がきた。少年の担任は、うら若く美しい渕上孝代先生である。母は顔見知りとはいえ、やはり緊張している。恥ずかしがり屋の少年の緊張は、言わずもがなである。
 渕上先生は下の方から、真新しい自転車に乗ってやって来る。やって来られる道で一番見易いところは「仏ン坂」である。少年は縁先に立って、(渕上先生、来ているかな?)と、何度か様子見を繰り返した。これは、釜屋(土間の台所)で支度をしている母の指図だった。様子見のたびに少年は、「渕上先生は、まだ来よんならんよ」と、釜屋の母に知らせた。渕上先生は自転車で、仏ン坂を下って来られるはずだったのである。
 母はおもてなしの支度に大わらわで、釜屋の中を往来していた。家庭訪問は、親と子の落ち着きのない一日だった。やがて先生は、どこからかひょっこり来られた。先生は用意していた表座敷に上がられて、母と向き合って少年の学校の様子を話されていた。ときおりは母、「そうでしょうか……」と言って、ぎこちないよそ行き言葉で相槌を打っていた。少年は先生に挨拶もせずに、近くの襖の陰に隠れて、聞き耳を立てていた。しかし、二人の話の内容は聞き取れなかった。
 突然、母が、「しずよし、隠れていないで出てきて、先生に挨拶すればええたいね」と、言った。母に不意におびき出されて決まりが悪かったけれど、少年はおずおずと出て行った。渕上先生は「しずよし君、いたばいね」と言って、笑われた。
 先生が母に、おいとまの言葉をかけて立ち上がられると、母は用意していたおもたせを先生に渡した。先生は自転車に乗って、次の友達のだれかの家へ行かれた。少年は母に、「渕上先生は、なんて言うてた」と、矢継ぎ早に聞いた。
「渕上先生は『しずよし君は、とてもいい子です。心配することは何もありません』と、言われたよ」
 と、母は言った。少年はうれしくなり、はにかんだ。母と少年が気懸りだった家庭訪問は、何事もなく済んだ。
 当時の内田村には保育園や幼稚園はなかった。だから少年は、小学校へ入学してはじめて、村中の同級生に出会い、学校という集団生活が始まった。それゆえ、少年にとっての学校生活は、毎日が新鮮で楽しいことばかりだった。学校へ行きたくないと思う日は、一度もなかった。
 少年は水道の蛇口のある水飲み場もおぼえたし、足の洗い場おぼえた。運動場や砂場にも慣れた。みんなでガヤガヤ言ってする、教室や廊下の掃除も苦にならず、楽しかった。学校にあるいろんな施設もだんだんとわかった。友達とは、みんな仲良しになった。少年は、渕上先生をますます好きになった。少年は日に日に学校に慣れて馴染んだ。小学校入学したての頃は、教科書を開くことも少なく、渕上先生を先導役に友達との輪を広げて、集団生活に慣れて行った。
 学校行事の一つには運動会があった。少年は運動会では天真爛漫に、とことん楽しんだ。もう一つには遠足があった。春と秋、二度の遠足の行き先はほぼ決まっていて、少年の家からははるかに遠い鷹取山だった。鷹取山は山というより小高い丘で、村中の桜の名所をなしていた。鷹取山の遠足には少年は、リュックに握り飯を三つ詰めて、ほかにはゆで卵や駄菓子、果物があればそれも持って行った。重たくても、水筒の持参は欠かせなかった。行きは弁当を食べる楽しみがあって気分が弾んだ。しかし、帰りはすっかり草臥れはてて、重い足を引きずった。そのうえ少年は、のんびりと道草を食べながら帰ったため、帰る時間が長く余計疲れが増幅した。
 原集落を過ぎて、近くの内野集落あたりになると、いっとき道端に座り込んで、元気の良い友達を見送った。途中の原集落には、クラス仲間で仲の良い富田文明君の家があり、内野集落にはこれまた仲の良い宏子さんの家があった。少年の家から鷹取山は遠く、このあたりから帰り道は、まだ半道強を残していた。鷹取山への遠足は、こんなことでつらい思い出である。これに比べて運動会は、楽しいだけの思い出である。