1月30日(月曜日)、生きている。かなりの「春ボケ」なのかもしれない。愉快ではないけれどいくぶん、いつもとは異なる気分で起き出している。「生存は美」だ。とりわけ人生の晩年に在るのは、確かな「美」と言っていいのかもしれない。きのうの私は、心中でふとこんな発想の転換を試みたのである。言うなれば年寄りの冷や水、いっときのマイナス思考のやせ我慢である。人の世にあっては生きたくとも、あっけなく命を絶たれる人為の出来事や事件あるいは事故、加えて自然災害による絶命のオンパレードである。ウクライナに見る人為の大量の殺傷、抗(あらが)えないコロナ禍による絶命などを抜きにしても、人の世ではいとも簡単に命が奪われたり、断たれたりしている。それらのすべては、前途有為の惜しまれる命である。こんなことを鑑みて私は、日々愚痴をこぼしたり、泣きべそをかいて生きることは、もったいないと悟るべきと、自戒を強いたのである。もちろん、遅すぎた焼け石に水ではある。しかしそう思えば確かに、人生の晩年にいたるまで生き続けていることは、余得とは言えない正徳と言えそうである。一夜漬け、いやローソクの火が燃えつけるまでくらい束の間の発想転換かもしれない。けれど、しないよりはしたほうがましだという、試みである。発想転換のせいなのか、なんだか起き立ての気分はすっきりしている。無理強いの発想転換など誇るべくもなく、風邪が遠のいているせいであろうか。しかしながら、せっかく発想の転換を試みたのだから、この先ちっとは長持ちさせたいものである。そのためには常に、わが肝に「生存は美」と銘じ、ひたすら念じてみようとは思う。ところが、この思いをすぐに断ちそうなのは、わが生来の悪癖、すなわち三日坊主である。私はいっとき、いや夜明けまで、「生存は美」の思いにひたっていたい、いやそう願っている。確かに、生きていることは、それだけで快いものである。春ボケの自演にすぎないけれど、マイナス思考の出口にありつければ箆棒に幸いである。