嗚呼、「無情」。長い夜

1月13日(金曜日)。嗚呼、眠れない。寝床で悶々すること2時間余、起き出して来た(2:54)。心象(風景)は、時々刻々に変化する魔物である。きょう書けているからと言って、あすも書けるとはかぎらない。継続を叶えることは、極めて困難事である。その証しには、今にも書き止めを食らいそうである。常々私は、文章継続の困難さに脅かされている。だとしたら、きれいさっぱり止めれば、気分の憂鬱や動揺は免れる。人生の晩年を生きる私は、確かに継続の可否の決断のしどころにある。これまた、悶える苦しい決断である。人生行路は、大まかに時代を区切りそれを連ねて命の終焉へ辿り着く。換言すれば命(人生)の生涯である。一つは、生まれて親の愛情に育まれる幼年時代。一つは、学びに就いて小学生、中学生、高校生、なお何かの学びを続ける場合の学び舎の時代。高校を卒えて実業に就いたとしてもこの時期は、なお学び舎の延長線上にあると言っていいだろう。総じて、青少年時代である。一つは、おとなの仲間入りをして実業社会で堂々と働く時代である。これすなわち、定年(60歳あたり)を区切りとする壮年時代である。一つは、こののちに訪れる老年時代である。わが大まかな時代分けゆえに、もちろん人それぞれに思いや区分は異なるであろう。しかしながら、異なる人生行路であってもまっとうすることは一様に困難事である。こんなことを、安眠をむさぼれる寝床に浮かべているようでは、もとより眠れるはずはない。私には人生晩年の焼きが回っている。嗚呼、「無常」は、あの世へ導くお釈迦様の身勝手な説法(言葉)である。私の場合は言葉を変えて嗚呼、「無情」である。寝つけの頓服薬が市販されていれば買って、のみたいところである。あっても、人生の晩年を生きる私には効き目はなさそうである。夜明けは、まだはるか先にうずくまっている。起きて、悶々とする長い夜である。