人生、気狂いの雑感

1月12日(木曜日)、起きてまだ夜明け前にある。もとより、安眠と癒しを貪るはずの寝床は、様々な妄想が駆け巡る運動場さながらに化している。人生とは悩み苦しみて、死ぬまで生きることである。82年生きて、わが確かな悟りである。しかしながら実際の苦悩はこの先にあり、それゆえに未体験である。人生の孤独とは究極、ひとりで生まれ、ひとりで死ぬことである。起き立ての私は、気狂いしているわけではなく、確かな性根をたずさえている。しかし、性根はさ迷っている。寒気のせいではない、寒気はいつもより緩んでいる。言うなればお釈迦様の説法の真似事をして、書いてみたくなったにすぎない。もっとあけすけに言えば、ネタ不足を起き立てのダジャレで補ったものである。いや、ダジャレとも言えない、わがこれまでの人生行路から学んだ正鵠(せいこく)である。何たる果報者、いや何の祟りであろうか? わが凡愚・凡庸をはるかに超えて、私は文章を書き続けている。そのせいで、書き疲れている。とりわけこのところは、長い文章を書いている。そのため、疲れがどっと出ている。だからきょうは、休養に逃げ込むつもりだった。ところが、夜明けまでの暇つぶしに、パソコンを起ち上げた。挙句、気狂い症状みたいな文章を書いている。「コケッコー」の早起き鳥はいないけれど、早起きを悔いている。鳥インフルエンザウイルスにちなむ「鶏り殺つ」のニュースは、つらさ堪えないものがある。尻切れトンボだが恥じず、意図して短い文で閉じるものである。暇をつぶして、夜明けが近づいている。