「仕事始め」

令和4年(2022年)は過去になり、新たな令和5年(2023年)も三が日を過ぎた。そして、1月4日(水曜日)の夜明け前にある。壁時計の針は止まることなく、正確に時のめぐりを刻んでいる。夜が明ければ朝日と名を替えた太陽光線が、暗闇を照らし始める。命あるものはこぞって、新しい年の実質の始動となる。これまた表現を替えれば、生き続けるための否応ない人の営みである。端的には生業(なりわい)という、新たな年の日常生活の始まりである。机上カレンダーに目を落とすと、「官庁御用始め」と記されている。ただ、生来へそ曲がりの私には、「官尊民卑」時代の古めかしい表現にも思えている。明治、昭和、平成、そして令和と変遷した現代にあっては、単に「仕事始め」でいいはずである。もちろん、「官」という、名だけの尊い職業にありつけなかったわが僻みではない。しかし、この表記にはいくらか腹が立つけれど、「歳時(記)」の名残と思えば、気分の収まりは着く。カレンダーに沿えばきょうは、「官民平等」にうちそろっての、新しい年の仕事始めである。しかしながら、これにも語弊がある。確かに、大方の人は休む三が日ではある。だけど、「世のため、人のため、そして自分のため」、三が日をも働き尽くめた人は大勢いる。それでもきょうは確かに、一年を区切りとして、厳かな日と言えるであろう。そうであれば私は、世の中のだれしも、沸き立つ気分で仕事始めに臨んでほしいと、願うところである。とうにそんな気分は遠のいている、現役諸氏へのわが年頭の餞(はなむけ)の所感である。私の場合、ワクワクする仕事始めはないけれど、それより厳かな「生きる活動」を老体に鞭打って、日々続けている。すなわち「生存」、私にかぎらずだれしもにも、これを超える尊いものはない。仕事始めは、その身近な手立て(便法)である。もちろん私には叶わず、羨望つのるところである。仕事始めにありつけない私の場合、きょうは新しい年の「迷い言」の言い始めなのかもしれない。寒気を感じるわが身体には、朝日が恵む熱が欲しいところである。しかし、まだ朝日の蠢(うごめ)きはなく、体は冷えている。欲はかくまい、生きているだけで「大儲け」である。現役時代の私は、片道二時間余をかけて、仕事始めに就いていた。人生晩年を生きる現在、甘酸っぱい思い出である。