「ひぐらしの記」は、大沢さまから「前田さん。何でもいいから、書いてください!」と、言われて誕生した。すなわち、「ひぐらしの記」は、大沢さまのご好意にさずかり生まれた。実際にもその言葉に救われて私は、何でもかんでも書いてきた。その挙句に私は、生来の三日坊主には思い及ばない継続にありついた。文章の出来はさておいて、継続の叶えである。
あり得ない想念すなわち絵空事(えそらごと)をめぐらせば、「三日、三月、三年、するが辛抱!」と、人生訓を垂れていた母は、野末の草葉の陰でひそかに褒めているだろう。もちろん、そんなことはあり得ない。しかしながら私は、文章を綴りながら同時に、母の面影を浮かべては継続への支えにしてきた。文化・教養とはまったく無縁の母は、唯一、大家族を支える術(すべ)にだけは長(た)けていた。水車を回し精米業を兼ねて農家を生業(なりわい)とする母は、物心つき始めの私にたいして、二つの人生訓を諭(さと)し始めた。一つは先に記したものであり、一つは「楽は苦の種、苦は楽の種」である。つまり、どちらも「しずよし、辛抱せよ!」との人生訓である。思えば母は、早々とわが三日坊主の性癖(悪癖)を見抜いていたのであろう。
母の愛とは、桁外れに深いものと思うところである。それでも私は、わが人生八十年においては、さまざまなところで三日坊主を繰り返し、悉(ことごと)く母が垂れた人生訓に背いてきた。このことを思えば、大沢さまをはじめとしてご常連各位様の支えと励ましを得て続いてきた「ひぐらしの記」は、オマケに母の人生訓に報いたものでもある。言うなれば「ひぐらしの記」は、人様のご好意で継続が叶い、同時に母の愛に報いたわが望外の傑作である。もとより傑作とは、文章の出来を言うのではなく、三日坊主に耐えたことをちょっぴり自惚(うぬぼ)れて、手褒めの寿(ことほ)ぎにすぎない。
このところの私は、執筆には有り余る秋の夜長に手を焼いてきた。ところが、きょう(十月十五日・木曜日)の私は秋の夜長にあって、あけすけにこんな迷い文を書く幸運に恵まれた。ずばり、ネタ不足を免れた、一文と言えそうである。現在、パソコン上のデジタル時刻は4:41である。夜明けいまだの薄暗い中にあって、道路の掃除を敢行している。今朝も、夜明けを待たずに掃除にありつけそうである。母の人生訓とはいくらかずれているけれど、箒を這わすわが姿をチラッと目にすれば、坊主から禿げに変わったわが頭を撫でなでして欲しいものである。
きょうにかぎれば、何でもかんでも瞑想(迷想)に耽(ふけ)れる秋の夜長のおもてなしと言えそうである。しがない現実に返ってきょうは、隔月に訪れる国民年金支給日である。母恋物語より牡丹餅(お金)とは、なんだか切ない。それでもきょうの私は、またとない秋の夜長の恩恵にとっぷりと浸っている。