(なんだかなあー…)、押印(ハンコ)不要施策が、菅政権のスタート時の目玉のようである。十月十四日(水曜日)、現在のデジタル時刻は2:46と刻まれている。秋の夜長にあってこのところは、まるでハンコを押したかのようにこの時間帯の前後に起き出して、パソコンに向かっている。この先、こんなことが定着すればと、このところの私は、少なからず気を揉んでいる。なぜなら、早起きのせいかこのところの私は、夕方あるいは夕食を摂った後に、早々と睡魔に襲われている。もちろん、(まだ早いよ!)と気張って、睡魔を抑え込んでいる。しかし、だんだん敵(かな)わなくなりつつある。
早い睡魔の暴れ出しの誘因を浮かべてみた。真っ先には、常態化しつつある早起きを真犯人に見立てている。次に浮かぶのは、八十歳を超えて先へ向かっている年齢の仕業かと、思うところがある。そうであれば早い睡魔の現象は、もはやこの先避けられず、いっそう加速するばかりである。しんがりに、いやこれが真犯人だ! と、思うのは、身辺整理にともなう心労のせいであろう。実際のところ身辺整理は、いまだごく身辺の手始めにすぎない。それなのに、こうまで心労をこうむり眠気を催すようでは、それこそこの先が思いやられるところである。その挙句わが死因には、「身辺整理の疲れ」と、書かれそうである。現在の私は、なまぬるい身辺整理というより、死に支度を急いでいるようでもある。そうであれば支度などほったらかしにしていても、やがては必ず訪れることだから、日々心労にとりつかれてまで、急ぐこともないだろうとは思っている。つまり、身辺整理を止めないかぎりは、この先にはなおいっそう睡魔の暴れをこうむりそうである。それほどに身辺整理とは、身体と精神共に、かぎりなく堪えるものである。そうであれば望むことは、身辺整理などには意を留めず、「ピンピンコロリ」を願うところである。
わずかに三十分足らずの、秋の夜長の殴り書きである。かたじけなく思いつつも文章を閉じて、この先は夜長に耽り、悶々と夜明けを待つこととする。こんな駄文が継続文をなすのは、ほとほと木っ端恥ずかしい思いでいっぱいである。睡魔にかこつけた実のない継続文は、睡魔以上にわが身に堪えている。