垣間見える世相

 十月十六日(金曜日)、日本社会における現下の気に懸かる世相を浮かべている。一つは、新型コロナウイルスの感染者数の推移である。このことにかかわるメディアの報道は、このところは抑制気味のところがある。しかし、新型コロナウイルスの感染者数の実態は、メディア報道のように落ち着いた状態でもない。メディアの報道では週初、すなわち水曜日あたりまでは少なく、一方で週の後半すなわち木曜日から土曜日あたりには、多く報じられてくる。日々の数値が反映されるのは実態より三日ほど遅れて、かつ物理的にもPCR検査などの多寡(たか)が影響しているからだという。このことでは日々一喜一憂することでもない、数値には実態とのいくらかの齟齬や乖離があるようである。それでも感染者数の増減傾向は、明らかに分かるところはある。
 感染者数の報道が日々常態化している今朝の朝日新聞の朝刊によれば、全国の感染者数は七〇八人(前日すなわちきのうの午後八時半現在)と、報じられている。そのうち、東京都に限定すれば二八四人という。東京都の場合、この数値は過日(八月二十日)の三三九人以来というから、ぶり返し傾向にある。世界的にもこのところはぶり返しの傾向にあり、第二波と伝えられ始めている。そうであれば、日本社会におけるこの先の感染者数の動向が気になるところである。
 新型コロナウイルス報道に加えて、私には気になるものがある。すなわち。私はこの記事に目を留めたのである。
 【郵便土曜廃止 来秋にも】「郵便が届くのがいまより遅くなる見通しになった。差し出し日から3日以内に届けるルールが4日以内に緩められる。日本郵便は土曜日や翌日の配達も原則としてやめる方向だ。民営化された日本郵政グループの収益改善が狙いだが、サービス悪化への懸念が強まりそうだ。」
 この記事における咄嗟(とっさ)のわが思いは、唖然とするものであった。もちろんそれは、郵便にかかわらず、広く日本社会の変容ぶりからもたらされている。狭義には郵便配達のみならず、今や新聞配達も青息吐息の状態にある。その挙句、新聞配達にも何らかの変化が生じそうである。
 こどもの頃からこんにちにいたるまで郵便配達と新聞配達は、私にはごく身近なところでありがたい慣行の双璧を成してきた。顧みればかつては、それぞれの玄関口で人は、郵便配達人と新聞配達人の訪れを待ち焦がれて佇んでいた。それは日本社会にあって、心温まる原風景を成していた。特にこれらは、社会から隔絶されたかのような、鄙びたわが生誕の地(ふるさと)にあっては、張りのある日常生活の一端を担っていた。同時にそれは、確かな日本社会の文化とも言えるものでもあった。
 ところが様変わる日本社会、具体的にはIT(情報技術)、SNS(ソーシャル ネットワーキング サービス)、はたまた何でもかんでもデジタル化の波の影響で、これらは事業自体の変容を迫られている。まさしく、背に腹は代えられない施策であろうけれど、私にはみずからの首をみずからの手で締めることにならないかと、危惧するところがある。もちろん、わがアナログ人間の老婆心である。しかし、杞憂になりそうにない。
 確かに、秋の夜長にあっては、善悪交々に冥想(迷想)に耽(ふけ)るところがる。その多くには、変わりゆく時代に付き添う寂しさがともなっている。言葉を重ねれば目下(もっか)の日本社会は、時代の変遷にともなうつらい世相にある。