まったくなさけない。書くに耐えない、読むに耐えない、私日記に成り下がっている。きょう(十月十九日・月曜日)は、痛みの続く歯医者を先送りにして、予約済みの「大船中央病院」(鎌倉市)への通院がある。掛かりは消化器内科である。どんな診察と診断になるかは、もちろん予測できない。これまでは何度か、胃カメラや大腸カメラなどの内視鏡検査を繰り返してきた。だから、その延長線上の診察が予測される。
もう一つは、採血による異常数値の経過診断である。きょうは採血診断だけで済めば万々歳である。いずれも、自覚症状に脅かされての通院ではない。それでも病院行きには、いつも恐々とするところがある。心中には、新たな病巣を(探さなくてもいいのに)という、バカな思いをたずさえている。
病院いや医者は、病巣探しとその治療が本来の任務(役割)である。そのためにはきわめて高い頭脳と技術の習得が必要である。もちろん、崇高な志がイの一番である。そのため医者は、もともとの頭脳の良さに加えて、高額のお金と多年の研修をかけて、志を叶えた人たちである。まさしく、世のため、人のため、明らかに尊敬や崇敬するに値する人たちである。もとより、診断結果を聞く、医者の一言一句は、胸に突き刺ささるものがある。なぜなら、その言葉の善し悪しで、この先の人生が様変わることとなる。おのずから、神妙きわまる瞬間である。
現在の私は、歯痛や口内の荒れようには悩まされているけれど、内臓にかかわる自覚症状はない。そのため、そう恐れる通院ではないけれど、通院を避けたい気分は旺盛である。独りよがりに、いつもの採血と異常数値の経過診断ぐらいで済めばいいなあという、望みをたずさえての通院となる。
ところがわが意に反し、新たな病巣探しとなれば飛んだ災難である。もとより、通院には幸不幸がつきものであり、その挙句、滅多なことでは無事放免にはならない。このことを心してのきょうの通院となる。私はいつものように神妙に診察室へ入ることとなる。患部の治療に行く歯医者の場合は、のた打ち回って治療椅子に体を横たえる。通院にかかわる心持の大きな違いである。実際には急に予約をとって先に歯医者へ行きたいところである。しかし、数か月前に予約済みを反故(ほご)にはできない。そうであればきょうの通院でも、無事放免を願うところである。
身体の内臓、すなわちさまざまな部位における病の発症など、私は知るよしない。おのずから通院には、常に「俎板(まないた)の鯉」の心境にある。歯が痛く、口内が荒れて、憂鬱気分旺盛である。それなのに嗚呼(ああ)、歯医者は後回しである。そであれば、内臓に新たな病巣の無いことを願うばかりである。