12月17日(土曜日)、起き立てにあって、寒さが身沁みている。このところの書き出しにあっては、こんな常套文になり下がっている。すでに何度も書いているけれど、「ひぐらしの記」という命題は、六十(歳)の手習いにすぎない私にとっては、とても書き易く、ありがたいものである。すなわち、大沢さまから授かった命題は、名づけの親の優しさの表れである。きのうの私は、行動予定にしたがって、「大船中央病院」(鎌倉市)の消化器内科における外来患者となった。予約時間は午前九時半である。私は、九時前から待合室の長椅子に腰を下ろしていた。診察はすでに始まっており、早出組の患者は、世の中の三分間診察のご多分に漏れず、まさしく三分間くらいを挟んで入れ替わる。このぶんではほぼ予約時間どおりに私の名前が、スピーカー(拡声器)から流れてきそうである。私は両耳に嵌めている集音機の音量はあらかじめ最大音量にして、なおかつ聞き耳を立てて身構えていた。予約時間がちょっぴり過ぎて、スピーカーからわが名が呼ばれた。私はいくらかおずおずと、勝手知っている3号診察室のドアをコツコツ叩いて開けた。正面に腰を下ろされている、今やお顔馴染みの主治医先生にたいし、私は立ったままに「おはようございます。お世話様になります」と、言った。こののちは先生に導かれて、丸形の診察椅子に腰を下ろした。さあ、私と言うより、患者と医師の会話による遣り取りの始まりである。会話の口火は私が切った。「おはようございます。先生、まずは謝らせてください。私は先月の予約日を見過ごしてしまい、あらためて予約をきょうに取り直したのです。ご迷惑をおかけいたしました」「いいですよ、ところでいかがですか?」「はい。この一年間は、胃と腸、共に気になる自覚症状はまったく、ありません。ただ、ここ一か月ほどは、口内炎と胃部不快の抱き合わせに悩まされています。そして、いまだに治り切れません。口内炎のほうはほぼ収まりましたが、胃部の方ほうは痛みはないけれど、不快な気分が続いています」「わかりました。胃薬は出しておきましょう。ところで、胃カメラをのまなければなりませんね」「そうですか。いやそうですね」「暮れと、明けてからでは、どちらがいいですか?」「日取りは、先生にお任せいたします」「それなら、暮れの二十九日にしましょう。この日は、病院の今年の診察最終日です」「わかりました。お世話様になります」「胃カメラに関する説明がありますから、外で待っていてください」「ありがとうございました」。外でしばらく待っていると、初見の女性スタッフが、椅子に座っているわが面前に身を屈められて、縷々説明された。私はすでに胃カメラのやり方は知っていても、優しい説明に応えて、神妙に聞き入った。ところが最後にして、わがへそ曲がりの性癖がにょきにょき出て、余分な言葉を添えてしまった。「良い先生と優しいあなたに会えて、幸せです。たぶん、私はこの病院で死にます。よろしくお願いします」。女性スタッフは遣る瀬無い笑顔を残して、立ち去られた。こののちは、胃薬の処方箋、新たな予約表、そして診察料金表をたずさえて、院内における所定の手続きを済まして、院外へ出た。胃薬をもらうのは、院外の調剤薬局である。血液検査があればと、私は朝御飯を抜いていた。それゆえに、大船駅前まで10分ほど歩いて、買い物時の昼飯定番の「すき家」へ入り、安価な割には味を占めている「ミニ牛丼」(330円)を食べた。食べ終わると、スマホを手にしてデジタル時刻を見た。10:55。麗らかな陽射しのおかげで、起き立ての頃の寒気は緩み始めていた。こんな書き殴りが許されるのは、「ひぐらしの記」という命題のおかげである。しかし、大沢さまは、「前田さん、こんな書き殴りの文章は当て外れですよ!」と言って、ご立腹なのかもしれない。無能の私は、勝手に大沢さまの優しさに縋っている。