12月14日(水曜日)。夜明け遠い時刻(4:16)にあって、生きて起きてきた。寒気が、肌身に沁みる。バスや電車に乗れば、座席を譲られることに、気を遣わなければならない。日々の外出行動は、余儀ない買い物回りと、かかりつけの病医院へのたらい回しの通院にほぼかぎられる。対面や電話による人様との会話はほとんどなく、もっぱら角突き合わせて、妻との荒々しい会話にほぼかぎられている。テレビ番組は、妻が好んで見入る料理番組にいや応なく流し目をするくらいで、もとより興味なく見飽きて面白味はない。だからと言ってわれひとり、パソコンやスマホなどのデジタル機器を楽しむ技量はまったくない。デジカメは流行りにそそのかされて買ったけれど用無しに、今やどこを探しても見当たらない。周回道路の数歩さえ、散歩となれば億劫で果たせない。卓球クラブへの足は、間遠くなるばかりである。忘年会や新年会、いや集会や会合という言葉さえ、死語になりつつある。挙句には対人や対面という言葉さえ、死語になりかけている。人様との対面による交わりがなければ楽しみはない。楽しみのない人生は、生きる屍(しかばね)である。私にはアルコール類の嗜好はなく、「酒」の文字のつく飲み物で飲むものは「甘酒」だけである。不断、アルコールの必要性は感じないけれど、コロナの発生以降は感染防止のために、出先からの帰宅のおりに指先にちょっぴりつけている。しかしそれも、効果など二の次に、「パパ。必ず、消毒しなさいよ!」と、妻の言う小言逃れにすぎない。人生晩年における日常生活にあっては、日々寂寞感がつのるばかりである。それゆえにこれにあらがう便法は、悲喜交々とは言え過去の思い出にすがることとなる。ところが、思い出ばかりを塗りたくる日常生活は、もとよりなさけなく、また味気ない。今や私には、生き甲斐という大それた望みや欲望はない。望むところは、人様との会話である。なぜなら私の場合、人様との会話こそ人生の楽しみ、あるいは楽しみ方のイの一番だと思うからである。山から飛んで来た小鳥に古米をばら撒きながら、「待っていたよ、いっぱい食べなよ…」と、独り言を呟くようでは、会話にも人生にもなり得ない。人生の楽しみは独り言ではなく、人様との会話である。結局、私の場合、人生晩年の日常生活における寂しさは、年年歳歳、人様との会話が薄らぐことからもたらされている。言葉を替えれば、人様との会話こそわが生きている証しであり、楽しみのあるわが人生である。ところが、人生晩年の日常生活にあっては、人様との会話は遠のくばかりである。小鳥に向かっての独り言はもちろん会話ではなく、人様に認知症状の兆しと揶揄されそうである。指先、とぼとぼと書いたのに、いまだデジタル時刻は5:01である。夜長の時期の夜明けは、まだまだ遠くにある。寒気は、肌身につのるばかりである。