ノンフィクションは、厳しい生きる現実

12月12日(月曜日)。起き出して来て、「寒いなあー…」と呟いて、ブルブル震えている。現在のデジタル時刻は、夜明けはまだまだ遠い、4:30である。随筆集とは名ばかりの「ひぐらしの記」は、ノンフィクション(事実、実話)の最たるものである。この中の多くの文章は、明るさのない暗いものばかりである。これはわが生来のマイナス思考の性癖によるけれど、実際にも人生晩年のわが日常生活に、明るい話題が少ないせいでもある。もちろん私には、偽り(嘘)を交えても、明るく楽しい文章を書きたい思い山々である。ところが書けない。それは、生きる現実がきわめて厳しいせいである。もちろん、私にかぎらずだれしもにも、生きる現実には厳しいものがある。きのう、私は久しぶりに歩行が心許ない妻を連れ立って、いつものわが買い物の街・大船(鎌倉市)へ出かけた。この日の買い物回りは、共に大船店のイトーヨーカドーと西友ストアだった。この両店において私は、だれしもの生きる現実の厳しさに遭遇した。それは、買い物客の姿から推量したものだった。すなわち、だれもが楽しく食べて生きるようには見えなく、生きるために必死に食べ物漁りに夢中になっているように見えたのである。挙句、それらの姿は、わが夫婦を含めてまるで、山からわが庭中へやって来る、小鳥やリスの餌探しの姿とたいして変わらなかった。だれもが、買い物を楽しんでいるようには見えなかった。この光景には、現代の買い物風景がわが子どもの頃とは異なり、セルフ式のせいもあろう。すなわち、買い物選びに、対面の会話はまったくない。だれもが店主(店番)のアドバイスに縋り品物選びをすることなく、黙りこくって品物を選び、所定の籠に入れている。そして、レジへ向かい、そこでまた無言で並んでいる。代金はだれもが無言でカード払いをする。レジ係の人は謝礼の言葉なく、小さく一礼する。私は居たたまれず、「ありがとうございました」と言って、居並ぶ後続の人に気を遣い、心急いて荷造り用の据え置きの長テーブルへ向かう。そして、ホッと、息をととのえる。こののちはまた、買い物用の大型リュックと、持参の市販の布製の二つの買い物袋に分けて、大慌てで荷造りに精を出す。多額を費やしたのになぜか、「ありがとうございます」の言葉は、私のほうからの一方通行にすぎない。そして、ときには額に汗を滲ませて荷造りに必死である。もっぱら時間に追われている気分のする買い物には楽しみはなく、ひたすら生きるための餌探しの心境である。これらに比べて、子どもの頃の買い物は、店番の人の言葉が多く楽しかった。「なんでんもんやさん」のお顔見知りの人は、「しいちゃんは、ようおっかさんの買い物代わりをするばいね。偉かねー。きょうは、おっかさんに何を頼まれたの? ごっだま(飴玉)を一つあげるね。それにはオマケの、クジ引きがついているから、一回、引いてみんね」。片手に握って行ったのは、数枚の硬貨にすぎないときであっても、店番の人の笑顔と言葉はいつもと変わらない。今なお、店番の人の面影が偲ばれる、子どもの頃の楽しい思い出である。きのうの買い物は、妻の歩行訓練を兼ねていたので、6170歩、4・7キロと、スマホに刻まれていた。この歩数はおそらく、妻にあってはほぼ一年分を超えるとも思えるものだった。妻は昨年の12月24日に自宅で夜中に転んで骨折。夜明けて救急車に助けられて大船中央病院へ向かい手術。明けて、1月19日まで入院の憂き目を見たのである。長々と書き殴り、詫びるところである。現在のデジタル時刻は、5:38である。夜明けはまだ遠く、わが体調はいまだに不良である。書き殴りの駄文には、表題のつけようがない。