年の瀬の嘆き

12月10日(土曜日)。かつての松竹映画の題名だけを捩れば、人生行路は『喜びも悲しみも幾年月』である。人生行路にあって人は、過去には生きられない。過去は生きた証しと、悲喜交々によみがえる思い出だけである。だから人は、現在を生きて、未来を生きる。ところが、人生行路の晩年を生きる私には、未来はない。私はごく短く限られた現在を、しかも日々命の絶たれに怯えながら、細々と生きている。人生行路にあって幸福は、突然やってこない。いや、歯ぎしりして待っていても、まったくやってこないこともある。一方、不幸は、待つことなく腕を組み拱いていても、突然やってくる。人生行路は無常と言われるゆえんの一つである。年の瀬は一年の終い月とあって、私にかぎらず人みなの心中には、様々に雑多な思いが鬱勃する。そしてそれらの多くは、喜びより悲しみにうちひしがれている。ありがたいことなのか? 年年歳歳、喪中はがきの郵便受け口への投げ込みが減り始めている。その数も、やがては尽きるであろう。なぜなら、わが身内、かつ親類縁者にあってはすでに、ほぼ順送りに死の淵を覗いている。もちろん私は、寒い中にあってこんな無様なことを書くために起き出して、遣る瀬無くパソコンを起ち上げたわけではない。言うなれば、夜明けまでの暇つぶしの戯れ文である。ところが、現在のデジタル時刻は、いまだ4:07の刻みにある。それゆえ、暇つぶしにはいまだに有り余る時間を残している。だからこの先、戯れ文を書き続けても、とうてい埋め得るものではない。子どもの頃の年の瀬は、家族そろっての石臼に杵の「ヨイ、ヨイ、ヨイ、…」の掛け声の下の餅つきや、商店街の歳末クジ引き、はたまた正月準備などで、それなりに楽しかった。これらに夏休みとは違って、宿題のない冬休みの楽しみが輪をかけていた。ところが、現在の年の瀬には、楽しみ断たれて、命を惜しむ思いが鬱勃するばかりである。いまだ、デジタル時刻は、4:34である。暇つぶしには、「冬至」(十二月二十一日)の前のつらい夜長にある。わが生きているだけの、令和4年(2022年)年の瀬である。頭上の蛍光灯の明かりが、バカ丸出しと寒さに縮こまるわが身を見て、せせら笑っている。慰めてくれても、よさそうなものである。