秋空の中の柿の実一つ

 狭小なわが家の庭中には、園芸業者やプロの庭師など、すなわちお金を掛けてととのえた植栽はない。似非(えせ)の庭模様を成すのは、多額のローン(後払い)にすがり、ようやく宅地を買い求めた嬉しさに、勢い余っててんでバラバラにあちこちに植えた安価な雑木(ざつぼく)ばかりである。ひと言で表現すれば、殺風景な風景を逃れるためのお茶濁しの緑にすぎない。わが目の保養にはもっぱら、人様すなわち家並の植栽と、取り囲む山と周辺の木立に頼っている。言うなればわが目の保養は、人様の植栽と自然界の風景が織り成すコラボ―レーション(協作)すがりである。
 とうてい樹木とは言えない庭中の細木であっても、このところ年々、わが身辺整理の対象物になっている。おのずから立ち姿はこじんまりとなり、みすぼらしくなるばかりである。すなわち、いずれは空き家になることから、隣近所に迷惑を掛けないためのわが意図する自己都合の庭木傷(いた)めである。
 もちろん私とて、無慈悲に手当たりしだいに枝葉縮めを敢行しているわけではない。心中では傍目(はため)構わず、泣きべそどころか、号々と泣いている。わが心中のことだから、人様には見えないだけのことである。
 もとより、樹木というほどではない低木の柿の木だが、年々、枝葉切り落としの被害者となっている。挙句、身形(みなり)ならぬ木形(きなり)は、今やみすぼらしい姿を晒している。そのせいでいよいよ今年(令和二年)は、わずかに六つの実を着けただけだった。それでも唯一、わが家における実りの秋の実現である。それゆえに半面、私は様変わった風景を眺めて、心寂しさをつのらせている。柿の生る風景をこよなく愛し、それにも増して実利の味覚を好む私には、みずからの手でみずからを打ちのめしたつらいわが仕打ちだった。
 実際のところこの風景を眺めていると、矛盾するけれど憐憫の情と罪業(ざいごう)に、甚(いた)くわが心を砕(くだ)いていた。その証しには二つだけを手に取って、味の試し食いをし、四つは眺める秋の風景として残した。ところが、残したものの三つは熟柿(じゅくし)となり、わが無情にも道路へ落とし、汚(きたな)らしく裂けた。山に棲むわが愛鳥のシジュウカラやメジロに恵むこともなく、相済まなくてわが胸は切り裂かれる思いである。
 そして現在は、サバイバル(生き残り)競争に勝ち得た、一つ実だけが枝に着いている。この風景を眺めているとわが胸は、またもやキリキリと痛むのである。身辺整理は、長い人生の果てに訪れる、短く限りあるものの、途轍もなく「命の痛み」をおぼえる、虚しい作業である。