萩の花びら

 十月二十二日(木曜日)、パソコン上のデジタル時刻は3:28と刻まれている。秋の夜長にあっては、夜明け前と言うにはうしろめたいところがある。そのため、かなりの嘘っぱちだが、こんな表現を試みた。「秋の夜は、静寂(しじま)に深々と更けてゆく」。ときには、文学的表現をしてみたかったにすぎない。
 もう一つ、忘却を防ぐため英単語を書き添える。それは、PETAL(花びら)である。八十(歳)の手習いの実践のためである。道路からサルスベリ(百日紅)の花びらが消え、次には金木犀の花びらが消えた。すると、自然界にあっては瀟洒(しょうしゃ)な秋の花が咲く時期にあっても、わが家周りには草花を含めて、花びらを目にする日が途絶えていた。
 庭中の椿は蕾(つぼみ)を膨らす時期にあり、開花はいまだ先送りの状態にある。こんなおり道路を掃いていると、空き家を解いて残された空地の植栽の金柵の間から、萩の花の茎が湾曲してニュッと道路側へ垂れていた。今にも折れそうなか細い茎は、小さな花びらを重たそうに無数に着けていた。思いがけない出遭いにあって私は、箒の手を止めて佇んだ。萩の花びらに虚を衝(つ)かれて、驚くより狂喜した。心中無下に、(ここは、人が通るところだから邪魔だよ!)と呟いて、折れないように気を配り、鉄柵の間から空地の植栽へ返した。きょうは、たったこれだけのことを書いてみたくなったのである。
 わが文章には、いつも明るさがない。おのずから、自分自身にもそうだけれど、読む人には輪をかけて気分の滅入る文章ばかりである。すなわちこれは、生来のわが性質に起因する「身から出た錆」の証しである。もちろん私は、常々明るい文章を書きたいと願っている。しかしながら、生来のマイナス志向が祟(たた)り、いっこうに書けない。ほとほと、なさけなく、また、かたじけなく、思うところである。明るいネタ探しを試みたけれど探しきれない。そのためきょうは、「萩の花びら」におんぶにだっこされた蛇足文で、閉めとせざるを得ない。
 夜明けまでは、まだまだ長い夜である。夜明けの薄明りが訪れれば真っ先に道路へ向かい、お礼返しに萩の花びらの周辺を見回るつもりにある。いくらか、亡き父親の真似事である。父親は夜が明けると蓑笠(みのかさ)を着けたり、甚兵衛(じんべえ)を羽織ったりして、水田の見回りに出かけていた。萩の花びらは思いがけなく、父の面影をも偲ばせてくれたのである。萩の花びら、様様(さまさま)の一文である。