十一月二十九日(火曜日)。雨戸開けっ広げの窓ガラスを通して太陽の光は見えず、頭上の二輪の蛍光灯の明かりが灯るだけの未だ夜明け前にある。起き立ての私は、こんなことを浮かべていた。ネタ無く、浮かんだ事柄に縋り、つらつら書き続けるつもりである。一つは、昭和十五年(1940年)誕生のわが五歳前後に体験した忌まわしい記憶である。太平洋戦時下にあって警戒警報や空襲警報が伝えられると母は、わが坊主頭にすばやく防空頭巾をかぶせて、固く顎紐を結んだ。やがて慣れると、自分自身で防空頭巾をかぶり、近くの防空壕へ一目散に走った。戦時下における布製の厚手の防空頭巾は、銃後の守につく日本国民・老若男女すべての必需品だった。しかしながら幸いにも防空頭巾は、砲弾避けに役立つことはなく済んだ。ところが、防空頭巾は普段でも効用があった。もちろんそれは冬季だけだがかぶると、頭部の寒気を撥ね退けてくれた。確かに、砲弾避けにかぶらず済んだことは良かったけれど、それでも防空頭巾には悲喜交々の記憶がよみがえる。
日本列島には「災害列島」という、苦々しい異称がある。もちろんこれは、災害の筆頭に位置する地震の多さが異称の元を為している。すると日本国民には地震防禦策の一つとして政治と行政が音頭を取り、地震が起きたおりの着用と、不断の備えにヘルメットが勧められている。ところが、ヘルメットの効果は、防空頭巾同様に心構え程度であろう。しかし、人間心理は、怖さを恐れることに限界はない。へそ曲がりの性癖著しい私とて、地震の恐怖は蔑(ないがし)ろにできず、常に枕元にはヘルメットを置いている。ところがこれまた、今のところ実用は免れて、非国民と呼ばれないための防具のあり様でとどまっている。もちろん頭部に、普段の着用は免れている。
なぜ二つのことを浮かべて、かつ長々と書いたかと言えば、このことにたどり着くためである。すなわち、戦時下の防空頭巾、そして地震に備えるヘルメットに類して、新型コロナウイルス防御のための、長引くマスク着用生活を憂いているせいである。ところがこのマスク生活は、「命終焉」までのエンドレスにさえなるのか? と、危惧するところにある。そうなれば難聴の私にとっては、このことは小さいことではなく、いや大いに困ったこととなる。だから、このことについてはこれまでも、繰り返し愚痴こぼしをする羽目になっていた。
ところが、この先も何度も繰り返すことになりそうだけれど、すなわち、私にとってのマスク着用の日常生活は、きわめて不愉快である。それは両耳あたりに、集音機、眼鏡の柄、マスクの紐が混在し、甚だ鬱陶しく、さらにはそれぞれの着脱に神経を尖らせなければならいからである。このことでは鬱陶しさに加えて、神経の尖り、さらには面倒くささの三竦(さんすく)み状態が免れない。
このところのコロナは、またまた感染者数の増勢を極めている。おのずから、それに対するわが恐れと不愉快度は、日々いっそうつのるばかりである。人生晩年にあってコロナへの遭遇は「お邪魔虫」どころか、戦時下の防空頭巾のかぶり、地震発生にたいするヘルメットの備えなどをはるかに凌いで、エンドレス(無期限)の鬱陶しさになりつつある。ひとことで言えば、「甚だ、困ったもの」である。
書き殴りに加えて、走り書きをしたため、夜明けの明かりは未だ見えない。いや、少し闇は薄らいできた。大空は、雨模様の曇り空である。