十一月末日、「感謝と御礼の大志」

 十一月三十日(水曜日)。現在の壁時計の針は、きのうの夜更けを引き継いで、いまだ「丑三つ時」(午前2時から2時半頃)あたりをめぐっている。目が冴えて二度寝にありつけず、起き出して来た。起きたからにはパソコンを起ち上げるのは、わが身にこびりついたしがない倣(なら)いである。
 顧みれば「ひぐらしの記」は、元よりご好意をさずかる大沢さまとの二人三脚の下、友人・知人の声ある声、さらには掲示板上の声なき声にあずかり、思いがけなく多くの出会いを生んで続いてきた。加えて、竹馬の友・ふうちゃんが写した、わがふるさとに流れる「内田川」の実景は、わが逸(はや)る心象をさらに奮い立たせた。文章自体はなんら面白味のない、わが愚痴こぼしまみれにすぎない。それだけに余計、私に「ひぐらしの記」が恵んだ僥倖(ぎょうこう)は無限大であり、とうてい測り知ることはできない。それゆえに私は、ひたすら出会い得たすべての人たちにたいし、感謝と御礼の志を記すところである。こんな殊勝な気持ちになっているのは、もちろん突然でもなく、まして偶然ではなく、常日頃にあって絶えず私は、心中に浮かべている。
 起き立てなのに現在の私は、ピカピカと目が冴えている。もちろん、二度寝にはありつけない。しかしきょうの場合は、目が冴えて二度寝にありつけないことも、堪能すべき善い・良い・好い・佳いことである。「ひぐらしの記」は現在、わがこれまでの82年の人生行路にあっては、生まれて生誕地で過ごした(18年間)に迫るほどの年数(15年)の途中にある。六十(歳)の手習いからかんがみれば、わが人生行路の四分の一強を超える長丁場でもある。だから、ちょっぴり自惚(うぬぼ)れてみれば、もちろん文章などまったく素人(しろうと)の私が為せる年数ではない。
 きょうは十一月の最終日である。いよいよ明日からは、令和4年(2022年)の歳末すなわち最終月を迎えることとなる。「人間、万事塞翁が馬」、また「一寸先は闇の中」である。それゆえに、早やてまわしにわが心中に根づく「感謝と御礼の念」を吐露することは、悪いことではないであろう。ますます、目が冴えてきた。だからこのまま、寝床へとんぼ返りしても、二度寝にありつけることはない。しかしながらいつもとは違って、心地良い気分である。もちろんこの気分の良さは、自分だけでは成し得ない。現在の場合は、平洋子様のご投稿文が、わが気分の好さに加速度と拍車をかけている。拙(つた)い文章ながら私にとっての「ひぐらしの記」は、人様との出会いを為し、なかんずくご厚誼(こうぎ)に恵まれて、わが人生行路における何物にも勝る宝物である。それゆえに人様に対し、幾重にも謹んで「感謝と御礼の大志(たいし)」で満杯である。
 壁時計の針は、未だ三時過ぎである。夜明けまでの空き時間は、洋子様のご投稿文に縋り、救われそうである。