十一月二十八日(月曜日)。夜明けまでは遠いもののぐっすり眠れて、起き出している。きのうは、まったく久しぶりに卓球クラブの練習へ出向いた。身体不自由の妻の世話係や、自分自身のままならない日常生活などのゆえに、気分の滅入りに遭って出向きは、長く沙汰止みになっていた。男女高齢の仲間たちは、みな元気よく集っていた。世の中のご多分に漏れず、男性陣の数や元気の良さを凌いで、女性陣の多さと元気溌剌ぶりが目立った。私は、男性陣の負け姿を真面(まとも)にさらけ出すかのように、疲れ果てた。ところが疲れは、ありがたい副次効果をもたらした。すなわち疲れは、これまた久しぶりに、ぐっすり眠れた心地良さを恵んだ。やはり適当な運動は、憂鬱気分の癒しには効果覿面のカンフル剤になる。
私の場合、実際には後ろ髪を掴まれて引かれる残り毛はない。それでも、「後ろ髪を引かれる思い」に苛(さいな)まれた。それは、共に卓球好きの妻を茶の間に置いてきぼりにして、ひとり出向く切なさであった。私は疲れたとはいえ、久しぶりの卓球の快さに浸っていた。しかしながらこの言葉や表情は、茶の間の妻にたいしては、憚(はばか)れるところがある。もちろん、大袈裟なまがいものの「武士の情け」というより、配偶者としての僅かばかりの真摯な心くばりである。「偕老同穴(かいろうどうけつ)」を謳(うた)う労(いた)わりにあっては、案外、この程度でいいのかもしれない。いや、私には、この程度しかできない。ところが妻は、「パパ。少ないよ!」と言って、目を剝くであろう。だけどそれは、妻の欲張りでもある。
夜明けはまだ遠く、夜の静寂(しじま)にある。しかし、寝床にとんぼ返りをするまでもなく、両目玉はぱっちりと開いて、脳髄は水晶玉のように透明に冴えている。永眠ではなく、生きる日常生活にあって、ぐっすり眠れることは、人生幸福の確かな一つである。