迷い文

 十一月二十七日(日曜日)、壁時計の針は五時半過ぎを回っている。しかし、夜明けの明かりはまだ先である。このところ、厭きることなく繰り返している書き出し文である。おのずから自分自身工夫なく、それゆえになさけなく思う書き出しである。
 日々、様々なメデイアから伝えられてくる社会問題はつまり、人間個々人の生存の苦しみの証しである。なぜなら、社会は人間の集合体である。苦しみの因(もと)を為すのは、個々人のそれぞれの生き様である。生存には個々人にたいして、様々な苦難に耐える強靭な精神力と、さらには周到な手当てが求められる。しかし、「言うは易し、行うは難し」。もとより、苦難に打ち勝つ精神力と、にあわせて用意周到(主に金銭・財貨)を叶えられる人はだれひとりいない。確かに人生は、艱難辛苦の茨道である。だから、当てにはならないとは知りながらも人は、ある意味真剣に神様や仏様の導き(説法)に縋りたくなる。人間だれしもが持つ、人間の心の弱さである。ところが、世の中には神仏を含めて、似非(えせ)の宗教、すなわち邪教が数多存在する。救いを求めたはずなのに邪教に靡けば逆に、心身(命)を滅ぶす元にもなる。ゆえに、わが人生行路において常に、自制を促してきた一つの教訓である。出まかせ特有に、わが柄でもないことを書いてしまった。言い訳としては、寝起きの朦朧頭のせいにするずるさである。
 きのうのテレビニュースの一つには、日本の国の出生率の低下が伝えていた。棒グラウで見るとまさしく、低下傾向に拍車がかかっていた。いつもの習わしにより、いくつかの街頭インタービューが画面に現れた。「こどもひとりはいるけれど、もうひとり生みたいと思っています。だけど、お金がかかりすぎて諦めかけています」。ある学者のコメントは、「人口の減少は、国力の低下につながります」。共に、あえて聞くまでもない個々人の生き様、それらをくるめた社会現象である。すなわち、社会問題は時(時代)に応じて、人間の生きることの困難さの写しである。
 こんな他人行儀(人様)のことは抜きにして、わが生存をかんがみれば、心身(命)は日々脅かされている。これまで書いてきた口内炎と胃部不快症状は、ようやく緩解へ漕ぎつけた。しかしこれで、命の永らえが叶うわけではなく、心身不良の懸念は常に付き纏っている。結局、人生行路は、心身(命)の安らぎのない茨道である。何のことを書いたのであろうか? 命、絶え時かもしれない。自然界の恵みは、満天日本晴れののどかな夜明けである。