十月より月が替わって、十一月の初日(一日・日曜日)の夜明け前に身を置いている。寒さはそんなに感じなく、気分的には可もなく不可もない、いまだ真夜中のたたずまいにある(3:30)。
現在、胸中に浮かべているものの一つには、歳月のめぐりの速さ感がある。今年すなわち令和二年(二〇二〇年)は、日々新型コロナウイルス感染恐怖に慄いているうちに、早や二か月を残すのみになった。なんたる時の流れの速さ感であろうか。まさしく、きりきり舞い状態にあり、もちろん、オチオチできない気分に晒されている。
もとより今年は、「東京オリンピックおよびパラリンピック」の開催年だった。しかしながらそれらのイベントは、世界中が新型コロナウイルスの渦中にあっては、余儀なく来年への延期となっている。ところが、新型コロナウイルスに終息の兆しさえ見えないなかにあっては、来年開催の確証は未(いま)だしのままである。
人の営みは新しい生活様式というふれ込みや要請の下に、さまざまなところで新型コロナウイルスへの対応が求められてきた。おのずから人の生活は、わが身の感染を恐れて忠実に対処してきた。それでも、日本社会における新型コロナウイルスがもたらしている災禍は、こう伝えられている。すなわち、感染者数十万一五七五人、死者数一七六九人、入院・療養中六一〇八人、うち重傷者一六一人、退院者数合計九万三一三四人である。(朝日新聞、十月三十一日午後八時現在)。 今や定番となっている日々のカウントの更新模様は、この先いつまで続くのであろうか。すると、いま現在恐れていることは、わが余生は新型コロナウイルスまみれになったままで、人生の終焉(しゅうえん)を迎えることである。しかしながらその恐れは、まんざら馬鹿げた杞憂には思えないところがある。いやいや、現実になる確率のほうが、はるかに高いように思えている。
歳月のめぐりでは過ぎた九月になるやいなや、お節料理の予約を急かすはがきやダイレクトメールが郵便受けに投げ込まれていた。それに続くものではきょうは、年賀はがきの売り出し日である。はたまた、街中にはすでに喪中はがきの印刷案内も目立っている。祝賀気分、不祝儀(ぶしゅうぎ)気分、入り乱れて、歳末商魂はけたたましいばかりである。
さて、十一月の初っ端にあっては国内外において、他人事(ひとごと)とも思えない二つの政治ショーがある。その一つ、日本国内においては、きょうには「大阪の都構想」にかかわる住民投票が行われる。そして一つには、三日に予定されているアメリカの大統領選挙がある。どちらの選挙も、私には関心事である。そして、季節めぐりは一週間のちにはカレンダー上に、「立冬」(十一月七日・土曜日)の表示がある。寒気に極端に弱い私には、最も恐れる季節の到来である。
やや気分が緩むものでは、「小春日和」という、季節用語がある。ところが、それに対(つい)をなして気分が滅入るものもある。それは、「木枯らし一号」である。新型コロナウイルスの勢いが衰えないかぎり、これまでに引き続いて、それに戦々恐々とする十一月の始まりである。「アーメン」とは言えず、「くわばら、くわばら……」である。