万物の霊長、すなわち人間の面汚し

 疲れているせいであろう。久しぶりに二度寝が叶い、目覚めて起き出してきたのは、夜明けて七時頃である。長く眠れたことではありがたいことだがそれはそれで、文章を書くうえでは焦燥感まみれになっている。同時に、秋の夜長を台無しにしたことでは、いくらかもったいない気分にある。しかしながら、それは言うまい。なぜなら、このところの私は、夜長の時間の手持無沙汰に陥り、快い瞑想に耽るどころか、迷想ばかりにとりつかれていた。このことを思えば、夜長を台無しにしたきょう(十一月六日・金曜日)の目覚めは、棚ぼたの恵みと言うべきであろう。
 焦燥感にとらわれた走り書きは、もちろん文章の体を成していない。そのため、現下の日本社会において、一つだけ気になっている憂える出来事を書きとどめるものである。それはこのところメディアのニュースで伝えられてくる、農産物や家畜の盗難事件の多さである。確かに、昔でも西瓜や果物などの泥棒には、生産者は憤懣やるかたなく手を焼いていた。しかし、当時の盗難事件は、コソ泥に輪を掛けたくらいで済んでいた。もちろん、生産者にすれば盗難の悔しさに大小はなく、生業(なりわい)に大きな痛手を被っていた。確かに、命を込めた生産物を泥棒に攫(さら)われた生産者の憤りは、小さいとは言えなかった。花泥棒に遭われた人の憤慨も同然である。
 このところのメディアニュースでは、当時とはうってかわって、職業人(仕事)さながらの大掛かりな盗難事件が相次いで伝えられてくる。盗まれる農産物は、野菜や果物はもちろんのこと、それらにかぎらずあらゆるものへ広がりつつある。家畜の盗難事件では、私が度肝を抜かしたニュースの一つには、豚を盗んで自分たちの腹ごしらえにしたというものがあった。テレビ映像には、モッコではこぶかのように二人して、豚を運ぶ光景が映し出されていた。よくもこんなことまでできるものかと唖然、嘆息交じりに眺めた映像だった。
 人間は、ほとほと悪徳である。農産物にかぎらず家畜の盗難事件には、もはや生産者の嘆きばかりではなく、日本社会の劣化を憂える世情にある。この先際限なく、先ずは海産物の養殖への波及を恐れるところである。日本社会は、人心が乱れてなお行き末が案じられる。目下は、農産物や畜産物の盗難事件のもたらす多難な世情にある。生産者の痛手や嘆きには同情や共有の余地なく、無為に傍観するばかりである。さまざまなところから伝えられてくる盗難事件の多さは、日本社会の憂える世情の確かな一つである。
 人間は生きとし生けるものにあって、言葉のうえでは万物の霊長と崇められてきた。ところが、実際には愚か者の筆頭に位置する証しが続いている。