寝起きの戯言(ざれごと)

 十一月六日(日曜日)、夜明けまでには未だ遠いところにある。部屋の明かりは、頭上に二輪の蛍光灯が灯るのみで、窓ガラスの外の様子は暗闇である。難聴の両耳に響くものは、五月雨式にぽつりぽつりと跳ね返る、寂し気なキイの音だけである。まったくの静寂ではないけれど、時は未だ夜の静寂(しじま)にある。
 形あるもの(身体)は、日々蝕(むしば)まれてゆく。形ないないもの(精神)は、日々衰えてゆく。共に、行き着くところは死である。こんなことを脳裏に浮かべて、起き出している。だからと言ってこの世は、悲観するばかりでもない。
 きょうの私には、テレビを媒体に早朝から二つの楽しみがある。一つはNHKBS3チャンネルに、日曜日の朝にかぎり7時15分から30分間、組まれている『おんな太閤記』の視聴である。もう一つは年に一度のきょうかぎりのもので、「全国大学対抗駅伝」(三重県・伊勢路)の視聴である。こちらは「おんな太閤記」を観終えて、15分を挟んでの午前8時から、延々と午後二時あたりまでのテレビ観戦である。生存中にあって、ときにはこんな楽しみがあるから、やはり死に急ぐことはない。生存と死、案外、辻褄が合っているのかもしれない。
 きょうもまた懲りずに、バカなことを書いている。バカとは言えないのは、いっとき鳴りを潜めかけていた新型コロナウイルスのぶり返しである。このことに関して私は、余生はマスク生活になるのだと、きっぱり決意した。ほとほと、鬱陶しい日常生活が強いられることになる。残り少ないわが人生をかんがみれば、飛んだとばっちりを受けて大損である。今度の勢いは第八波になるけれど、どんな大波になるのと、戦々恐々するばかりである。生存は、災害・災難の間隙を突いて成し得ている。まさしく、至難の業である。もちろん、生存が必ず明日へ続く保証はない。だからきょうの私は、年甲斐もなく二つのテレビ観戦に嬉々として身構えている。ところが、夜明けの空はまだ見えず、きょうにかぎれば、私は夜明けの遅さにやきもきしているところである。起き立てにバカなことを書くのは、このところのわが専売特許となっている。私の場合は、身体・精神共に蝕まれている。