惜しまれる「命」

十一月二日(水曜日)、きのう一日、ぐずついていた天候を撥ね退けて、淡い日本晴れの穏やかな夜明けが訪れている。好季節の晩秋にあっては、欲張って日々こんな夜明けが欲しいところである。しかし、そうは問屋が卸さないのは自然界の常である。だとしたら、天変地異のない夜明けであるゆえ、これくらいで我慢、いや、十分すぎるのかもしれない。自然界に比べて人間界には、メデイアから日々ままならない出来事や事故・事件が伝えられてくる。起き立ての私は、それらの一つを浮かべていた。新型コロナウイルスにあっては老若男女(ろうにゃくなんにょ)のだれもが、何年かがかりでワクチン接種を繰り返し、命を大切にしてきている。それなのに、隣国・韓国(ソウル)で起きた一瞬の死亡事故は、あまりにも切なく痛ましいものである。私はあらためて、事故・事件に付き纏う、命の脆(もろ)さをいたく知らされている。病気であれば、命の絶えには仕方ないところがある。ところが、今回の事故の場合は、仕方がないと言って、済ますことはできない。死者に鞭打つつもりはないけれど、いくらかの気の緩みや落ち度があったのであろう。実際のところは、われ先にと思う、群集心理の罠に嵌ったのかもしれない。命絶えれば、すべてが後の祭りである。起き立ての私は、柄にもなくこんなことを浮かべていた。「命あっての物種」、命は粗末にすれば一瞬にして呆気なく絶える弱いものである。逆に、日々気を遣い大切にすれば、際限ないとは言えないけれど、べらぼうに強いものである。このことは、八十二年生きながらえてきた、わが正直な実感である。指先の動きを止めて窓ガラスを通して大空を眺めると、日本晴れは朝日を帯びて真っ青に照り輝いている。隣国の事故とは言え、人の命のことゆえに、つらさがつのる夜明けにある。日本人、お二人の若い命も絶たれている。