能無しの私が浸る幸福(感)

 私にはだれかれではなく、出会えた人のすべてに、恩に着るところがある。もちろん、声なき人たちのご厚情をも、まるで対面の出会いのごとく身に染みて、ありがたく感じている。双方を丸めてひと言で言えば、「ひぐらしの記」がもたらしている御縁である。
 私は自分自身の能力をはるかに超えて、長いあいだたくたくさんの文章を書いてきた。そのためこの頃は、明らかに精神疲労を自覚している。わが能力を超えた頑張りすぎの付けが、堰が切れたごとくにどっと回ってきているようである。だからと言って私には、この付けに悔いごとを挟む余地はまったくない。なぜならこの頑張りには、さまざまにかつ無限大と言っていいほどの幸福(感)がもたらされている。幸福(感)の筆頭は、今さら言わずもがなのことだけどそれは、人様との出会いと、それから賜るこれまた無限大のご厚情と支えである。
 わが年齢は八十歳を超えている。おのずから人様との出会いも、人様の息づかいも遠のいて、わが日常生活は疎外感まみれになるところである。ところが私は、「ひぐらしの記」を通しての人様との出会いのおかげで、疎外感をまったく免れている。その証しにこの頃の私は、頓(とみ)に人様との出会いがもたらす幸福(感)に浸りきっている。確かに、この幸福(感)が無ければ、生来「三日坊主」の私が、こんなにも長く書き続けてこられたわけはない。まさしく、今は亡き母が垂れ続けていた二つの教訓、すなわち「するが辛抱」そして「苦は楽の種、楽は苦の種」の結実である。
 しかしながらこの果報は、もちろん自力本願ではなく、人様すがりの他力本願がもたらしたものである。精神疲労は私にとりつく無能力の付けであり、それを超えて余りある幸福(感)は、人様からもたらされている便益である。夜長にあってあらためて、人様との出会いがもたらしている幸福(感)の吐露と披露である。文尾ながら人様にたいして、感謝感激この上はない。