これまで、身近なところで眺めてきたものの一つには、道路工事は始まったらなかなか終わらない。ようやく終わったなと思えば、こんどはガス管工事が始まり、これもようやく終わったなと思えば、こんどは水道管工事が始まる。挙句、同じ個所が施工業者を替えて、なんども掘り返される。そのたびに私は、(なんだかなー……)と、唖然とするほかない。
私は根っからのへそ曲がりである。歯医者の治療台に寝そべるたびに、もちろん声なき声で私は、歯医者通いを道路工事にたとえている。明確に違うところは、道路の掘削工事みたいに、施工業者が入れ替わらないところである。確かに、痛むところがモグラ叩きさながらに、次々に替わるのであろう。それでもへそ曲がりの私は、歯医者の治療を心中では、道路の掘削工事みたいなものだなと、思っている。こんな馬鹿げた思いで、治療台に寝そべっていては、いずれ大きな罰が当たりそうである。なぜなら先生は、わが歯の痛みを抑えることに、優しくかつ真剣必死である。
きょう(十一月十八日・水曜日)は、週一にめぐってくる歯医者への通院日である。予約日はほぼ水曜日に固定さている。予約時間は、先週に続いて午前九時半である。予約とは確かな約束である。そのため、これに背いたら人間の屑の範疇になる。こんな思いをたずさえて私は、かなりの余裕時間をもって待合室に入る。もちろん歯医者にとどまらず、病医院通いにおけるわが不文律のみずからへの決めごとである。
幸いなるかな! 現在は、歯の痛みは感じない。自覚するところは、胃腑の不快感である。しかし、きょうはこの手当の通院はしない。ちょっぴり、(なんだかなあー……)と、腑に落ちない思いがしないでもない。この場合、適当ではないけれど、ふと自家撞着(じかどうちゃく)という言葉が浮かんだ。語彙(言葉と文字)の復習のために私は、すぐさま電子辞書を開いた。〈自家撞着〉:同じ人の言行が前と後とくいちがって、つじつまの合わないこと。
わが掲げる語彙の生涯学習は現場主義である。ところがその主を成すのは、新たな語彙の習得というより多くは、忘れかけている語彙の復習にすぎない。加齢とともにおのずから、電子辞書を開く頻度は増すばかりである。
私の就寝時の枕元には、常にわが三種の神器と思えるものを置いている。それらは、懐中電灯、携帯電話(ガラケー)、そして電子辞書である。それぞれには私から、役割が課されている。懐中電灯の場合は、地震、停電、さらには身体に痛みを覚えたおりに、ムカデ探しに用いるためである。もちろん、頭上の蛍光灯から垂れる紐も引く。携帯電話は、わが最も恐れている凶器である。受信音が鳴らなければと、願うところである。なぜなら枕元の携帯電話は、今や訃報を伝える役割に成り下がっている。唯一の取り柄は、目覚めて(今、何時かなあー)と、手にするだけの時計代わりである。前向きに、いや多くは後ろ向きに手にするのは電子辞書である。きわめて容易な日常語であっても、忘れかけている語彙は復習を兼ねて、すぐに電子辞書を開いている。このことでは、就寝から目覚めて手にするものの筆頭は、電子辞書である。
かつては買い物用のリュックの中に、電子辞書を忍ばせていた。それは、往復のバスの中で紐解くためだった。しかし現在は、涙をのんでこんな馬鹿げたことはやめて、あやふやに浮かんだ語彙を心中で、牛の二度噛みみたいに反芻(はんすう)しているにすぎない。ガラケーからスマホへ変えれば、重たい電子辞書の携帯は免れそうな、誘惑にかられるときもある。しかし、生来のわが優柔不断の性癖が、いまなおその決断を拒んでいる。
長い夜にあってきょうもまた、ネタ無しの迷い文である。歯医者通いの準備をするにはまだ早すぎる、いまだ真夜中のたたずまいである(三時過ぎ)。