きょう(十一月二十二日・日曜日)は、明日の「勤労感謝の日」(十一月二十三日・月曜日、祝祭日)」を前にして、三連休の中日(なかび)にある。晩秋から初冬にかけての好季節にあって、行楽シーズンは大団円の賑わいを見せるはずだった。しかし、三連休前には新型コロナウイルスの感染を恐れて、「我慢の三連休」という、行楽を控える警告(警鐘)が飛び交った。
ところが、きのうのメディアのテレビニュースには、我慢をしきれない行楽客の人出の様子が、あちこちの観光地から伝えられていた。それほどに人は、政府肝入りの施策である「GO TO トラベル(旅行)」や「GO TO イート(飲食)」キャンぺーンを当てにした、物見遊山を決め込んでいたのである。もちろん、新型コロナウイルス禍にあっても、それにありつく人たちを非難すべきことではない。おのずから、日本経済浮揚のためという、大義名分も成り立つところがある。
しかし一方、施策を敢行した政府は、人出の多さに得たりやおうとほくそ笑むどころか、大慌ての状態を強いられている。専門家や分科会のメンバーからは、新型コロナウイルスの感染者数のぶり返しは、明らかにそれらのキャンペーンのせいだ! と、あからさまにお咎(とが)めをこうむるありさまである。
そのため、政府はにわかにそれらのキャンぺーンの中止や、見直しをくわだてざるを得ない状態にある。肝いりのキャンペーンはにわかに袋小路入りに状態にある。もちろん、キャンペーンにありつけないわが面白(おもしろ)がりばかりではなく、ちょっぴり政府に同情するところはある。
さて、きのうの鎌倉地方は、ほぼ一日じゅう強風に吹き晒された。私は朝の道路の掃除を昼間へ後回した。山の枯葉は、夜明けからやたらと道路に舞い落ちていた。私はこの光景に業(ごう)を煮やし、昼前への後回しを決め込んだのである。天高い日本晴れの下、落ち葉しぐれは胸の透く眺めでもあった。桜の頃の桜しぐれと異なるのは、壁に吹き寄せられた落ち葉の重なりだった。一方ではこれには、強風の吹き晒しの恩恵があった。おかげと言うにはいくらか語弊があるけれど、しかし確かな恩恵であった。自然界の自浄作業のごとくに道路の落ち葉は、わが箒を這わせることもなく、吹き清められたのである。私は内心で(よしよし、シメシメ)と呟いて、壁に吹き寄せられていた落ち葉を何度も、70ℓ入りの半透明袋に塵取りから詰め込んだ。何度かは両手で、白菜を大樽に漬け込むかのように、力いっぱい押さえ込んだ。それでも袋は、はち切れんばかりに膨らんだ。しかし、やはり強風のおかげで、あっけないほどの短い時間で、掃除は済んだ。
私は頭上の山の木々の梢(こずえ)を見上げた。だいぶ空いていたけれど、強風に踏ん張りまだたくさんの枝葉が残っていた。私はこの先、なんどかの強風の吹き晒しを願っていた。もちろんそれは、寒風の吹き晒しではなく、暖かい陽射しをともなう強風の吹き晒しという、独りよがりの身勝手な願いである。このところは鎌倉地方のみならず日本列島全体に、季節狂いの暖かい日が続いている。そのため、寒気を極端に嫌う私は、うれしい悲鳴にありついている。
夜明け前にあってきょうもまた、まったく寒さを感じない。天恵、素直にありがたいことであり、文字どおり感謝感激である。夜明けには風が止んでいる。私は文章を閉じて、生前の起き立ての父の水田の見回りを真似て、道路の汚れぐあいの見回りに急ぐこととなる。区画の壁際の落ち葉の袋入れで、済めば万々歳である。